日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

近況、できる範囲で仕事がしたい

久し振りに投稿。

いまドストエフスキー死の家の記録』を読んでいる。ドストエフスキーは今までに『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』の三作を読んだ。前々からドストエフスキーの小説を一通り読んでみたいと思っているけども、未だに読めていない。

死の家の記録』はおもしろい。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に通じる部分もあると思った。

生活のほうは変わらず、今もデイケアに通っている。今のデイケアに来てからもう三年くらい経つ。もともと以前辞めた作業所とは別の作業所に移るためのつなぎとして利用するつもりだった。デイケアには半年くらいいて、それから別の作業所を探そうと思っていた。作業所の体験利用もした。けれども体験利用したときに、頭痛、動悸、悪寒などの症状が強くなって、作業所に移るのはいったん取りやめることになった。

それでだらだらと今のデイケアに通い続け、三年が経過した。自分は今のデイケアに合っているのかどうか、わからない。ずっとこのデイケアは自分には合っていないと思っていた。もっと仕事に近いことをしたほうがいいんじゃないか、と。

理想をいえば、週三日、一日三時間程度、作業所で作業をするという生活が自分には合っているんじゃないかと思う。もっと軽い気持ちで、作業所に挑戦してもいいんじゃないかと思う。訪問看護の人は現状維持、生活の維持、体調の維持を第一に考えましょうと言っている。今までの経験から言って、環境を変えると体調が悪化することが多い。となると今のデイケアからずっとぬけだすことができないということになる。やはり、自分にできる範囲で仕事をしたほうが自分の健康にもいいのではないかと思う。

その一方で、以前よりもさらに疲れやすくなっているみたいで、週三日通えるのがどうか不安がある。

前の作業所をやめてからもう三年以上経つ。自分には仕事はできないんじゃないかと自信喪失している。でもまったく仕事をしないでいると、自分には本当に仕事ができないという気がしてくる。悪循環に陥っている。なんとか、心機一転して作業所に移らなければと思う。できる範囲で仕事をしたいと思う。

近況、前向きな人生観

NHKラジオのテキスト「中高生の基礎英語in English」というのを書店で買ってみた。英語に関しては、これくらいのレベルの教材が自分には合っているのかも。並行して、Z会の「はじめる編 英作文のトレーニング」というのを読んでいる。

今日は山田晶アウグスティヌス講話』という本を少し読んだ。昔に読んで線を引っ張った部分を読み直した。道元との関連で、米一粒を洗うにしても細やかに洗うことで宇宙全体を洗っているのだということ、何を洗うかということにかかわりなく、われわれの手許にあり身近にあるものを一つ一つ真心をこめて丁寧に忠実にやってゆくということ、そういった日常的な行いを通して仏を現成しているというような話だった。

自分の手許にある物事に真心をこめて忠実に取り組むということ。ぼくは今精神科デイケアというところに通っていて、普通の労働はしていない。労働していないで遊び要素の強いことに取り組んでいる。遊びといっても自発的なものではなく、あてがわれて義務的にやっていることだから、純粋な意味での遊びではない。

つい最近、ドストエフスキー死の家の記録』に書いてある、囚人が桶に入った水を別の桶に移し、また元の桶に水を戻すという作業を続けることを強制されるという話を読んだ。それを続けていると発狂するとかそういう話だった。自分がデイケアに通っているのは、それに生きがいや楽しみを見いだせないという意味で、いくらか水の桶の話に近いのではないかと、一時は思った。

でも、今日山田晶の本の道元の話を読み、考えが変わった。自分の置かれた場所で、真心をこめ、身近にある物事に丁寧に忠実に取り組むしかないのだと思った。

音楽は、ここ数か月はハロウィンばかり聴いている。おもにダーク・ライド、マスター・オブ・ザ・リングス、タイム・オブ・ジ・オウス、守護神伝二章といったアルバムを聴いている。

自分を大きく見せようとしないこと

このブログの過去の記事を少し見た。数年前の記事だけども、木村敏について感想を書いている記事。なんというか自分の頭の悪さを直視することができないから、木村敏の理論についての感想をブログに書くことで、自分は人並み以上の知力を持っているのだと言い張りたいのだろうと思った。虚勢を張っている印象。木村敏とか学問的な本を、自分は人並み以上の知力を持っているのだと言い張るための道具にしてしまっている。これは大事な発見かも。自分の問題の一つだと思う。自分は、自分の知力が低いことをとても気にしているのだと思う。そして、それを受け入れることができていない。自分にとっての課題は、等身大の自分を受け入れることだろうと思った。

その木村敏について感想を書いている記事は、六年前のものだけども、まあ確かに六年も経てば、考えも変わって当然なのかも。自分の愚かさをいくらかでも自覚できるようになったのは、進歩と考えていいだろう。

ぼくは小学校のときから、勉強ができなかった。勉強に興味を持っていなかった。親も勉強しろとは言わなかった。ただ、中学一年のときにエレキギターに出会った。リッチー・ブラックモアというギタリストに出会って、初めて夢中になれるものを見つけた。その出会いは、自分の人生において、重大な意義ある出来事の一つだったと思う。

そういうわけで、音楽は自分にとって大事だと思う。

その一方で、勉強ができる人だとか知的と感じられる人に対して憧れる。それは自分にないものに憧れる感覚だろう。自分が知的でないから、知的な人に憧れるのだろう。

ここ何年か、ドストエフスキーに関心を持っている。ドストエフスキーについてブログなどで感想を書くことが、自分を大きく見せるための手段となっていないか、不安を感じる。自分を大きく見せることが最大の目的になっていないかどうか。好きなものについて、自分を大きく見せることを目的とせずに、ただ好きだという気持ちを表現したいという目的で語ることができたらいいと思う。

今は村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』という本を読み直している。この短編集の文体はとても好き。村上春樹の本の中でも特に好きなもののひとつだ。村上春樹の小説についていうと、好きだと感じられる文体の作品もあれば、そうでないものもある。例えば『1Q84』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の二つの小説の文体は好みではない。それでも、内容は面白いと思うし、この二つの小説はそれぞれ四回くらい通読した。長編でいうと、『海辺のカフカ』とか『羊をめぐる冒険』の文体は好き。

村上春樹の小説も、最近ちゃんと読んでいないので、一つひとつ読み直していきたい。

相変わらず、カラマーゾフの兄弟を読んでいる

相変わらず、カラマーゾフの兄弟を読んでいる。先日、罪と罰の最後のほうの場面を開いて読んだ。ラスコーリニコフが、結果が手段を正当化するのだ、ということを言っている場面。罪と罰もちゃんと読んでみたい。白痴は未だに読んでいない。あまり前に進んでいないかもしれない。いまイヴァンの大審問官の前置きの話をしている場面を少し読んだ。大審問官もいいんだけど、この前置きの部分がとても印象に残っている。幼児虐待の問題についてイヴァンが実例をいくつか挙げている場面。

あと最近も、やはりゾシマのもとに訪れた謎の客ミハイルについて思い出すことが多い。ミハイルが昔の自分の犯罪について、自白するかどうか迷っている場面。

ぼくはドストエフスキーのことを信頼している。彼の苦しみ方、悩み方に共感できる。

ドストエフスキーが手がかり

最近本をまともに読んでいないけれども、本を読むんだったら文体が美しいと感じられる本を読みたいと思った。例えば、埴谷雄高の『死霊』とか。

いま米川正夫訳のドストエフスキー『悪霊』を開いた。やはりこれだと思った。文体が美しい。この小説については、内容については何も言えない。一度通読しただけなので、スタヴローギンの告白という章と、キリーロフという人の考えていることがとても興味深くおもしろく感じられたという印象が残っているだけだ。『カラマーゾフの兄弟』を書いた人が、このような小説も書いていたということは驚きだった。

ドストエフスキー『未成年』、両極端の融和

ドストエフスキーの『未成年』を読み始めた。とてもいい。この小説は昔に上巻の半分くらいまで読んだことがある。訳者米川正夫による解題も、とてもいい。ぼくは米川正夫の文章が好き。とても美しい文章を書く人だと思う。ちょっと紹介する。旧字は勝手に改めた。

こうして、生涯ドストエーフスキイを苦しめ通した「両極端の融和」、神と悪魔の大問題は、未解決のままで残されているが、しかしヴェルシーロフは病気の平癒後、静かな光とつつましい悦びに包まれた、一種の安らかな心境に入った事を作者は語っている。それは彼の身内に蓄積され、内訌していた最後の肉の力が、遂に一団の猛火となって燃え上り、結局、虚無の冷灰に帰して了ったからで、両極端の融合でなく一つの極の敗滅かもしれない。要するに、謎は謎として残っているが、しかしわれわれは、巡礼者マカールの「この世の中はまことによい物だ。たとえ人間に取って何か神秘めいた物があろうとも、かえってその方がよいのだ。恐ろしいような不思議なような心持がする。この恐ろしさが楽しい心持を誘うてくれるのだ」という言葉を、書物全体に亙って感じ得るような気がする。(ドストエーフスキイ『未成年 上』岩波文庫、6ページ、米川正夫による解題から)

 

両極端の融和ということは、ぼくが長年取り組んでいる問題でもある。ドストエフスキーの本は共感的に読める。ぼくの人生問題と、ドストエフスキーの人生問題とは重なるところがあると感じている。

自分がどのような形で世界と関わりつながっているのか

最近は算数の勉強を中心にやっていた。本はほとんど読んでいない。何をして過ごしているのか、おぼろげにしか思い出せない。読書から離れていると自分がどんな物事に心を動かされるのか忘れていく。それこそ自己喪失みたいなもので、日々はぼんやりとしていく。本を開いて少し読んでも、内容に関心を持てない。一ページも読まずに本を閉じてしまうので、もう少し忍耐強く読み続ければおもしろいと感じるのかもしれない。けれども、じっと読書に集中するだけのエネルギーがない。

昨日は算数の計算問題を六時間ほど解き続けていた。とりあえず集中して取り組むことはできたけど、自分が自分から遠ざかっているのではないかという不安を感じることもある。問題は、自分が自分から遠ざかっているという自己喪失の感じを感じないことなのではないか。つまり、日々がただぼんやりと過ぎていく。内省することもなく、ただ日々は過ぎていく。ただ時間が過ぎていけばいいというものではない。算数の勉強をすることは、集中して取り組めているという理由から、それなりに楽しんでいるのではないかと思うことがある。でもやはり、疑問が出てくるということは、本当に好きなわけではないのかもしれない。人生にはもっと心を躍らせるもの、豊かなものがあるはずなのだと思う。

自分は何が好きなのだろう。自分がなぜ読書ということに執着するのか、なぜ読書から離れていると不安になるのか。それはやはり、本から離れていると自己喪失するからだろう。言い換えると、本の中に自己を発見することがあるということだろう。自分の心を動かすものが本の中にあるのだろう。それが手がかりとして感じられるのだろう。

長い間自己喪失が続いていると、自分は自己喪失しているという自覚もなくなる。自己調和とは、自己喪失を忘れることではない。自己喪失しているという事実を隠蔽して忘れてしまうことではない。自己調和とは、自己喪失の感じを忘れることなく、なされるものでなくてはならない。

ぼくが求めているのは、楽しい生活でも楽な生活でもなく、調和した生活だと思う。確かに、苦痛の多い日常であることは確かだから、苦痛少なく生きていたいといつも思っている。それでも、その苦痛は調和していないことから生じているものだから、ただたんに楽しい生活を目指したり、自分の苦痛や不安を隠蔽して忘れてしまおうとすることでは、本当の意味での幸せな生活を送ることはできないだろう。

苦痛はあって当然だと思うし、それが自然だと思う。苦痛も楽も双方含めての調和だと思う。自分の苦痛なり不安と向き合うことが必要なんじゃないか。

いま、久し振りに鈴木大拙の本を何冊か引っ張り出してきた。村上春樹海辺のカフカ』にも、一度開けた入口は閉めなくてはならない、という隠喩が出てくる。ぼくは高校生のころに神経症になり、その解決法として森田療法に出会った。森田の勉強、実践を通して、仏教の世界観に触れていった。つまり一度出会ったものとの関係を断つことはできない。ぼくは森田療法の考え、その後出会った鈴木大拙の思想から多くの影響を受けたから、鈴木大拙などから逃げ続けることはできないし、それらから逃げることは不自然なのだろう。最近算数の勉強を中心とした生活を送っていて不安を感じるのも、やはり鈴木大拙の本から離れていたことと関係があるだろう。やはり宗教、哲学の勉強を抜きにした生活というのは、自分には耐え難いし、それは幸福な生活ではない。

自分がどのような形で世界と関わりつながっているのか、そのことを知ろうと努めることが必要だと思っているし、それは宗教ということとも深いつながりがあることだと思う。

村上春樹再読

自分は村上春樹が好きなんじゃないか、という説が浮上してきたので、村上春樹を読み直してみたい。先日、騎士団長殺しを読んだ。通読は三回目だったと思う。おもしろく読めたし、全四巻を一週間で読めたから、退屈はしなかったのだと思う。これから羊をめぐる冒険ノルウェイの森ねじまき鳥クロニクルを読み直したい。

近況、キース・ジャレット、ドストエフスキーの馬

ここ最近、この三週間くらいか、算数の勉強を続けていた。生活の形の変化としては、普段音楽を聴くとき、以前はパソコンでiTunesを使って、小型スピーカーで聴くことが多かったのだけども、最近はspotifyを使うようになった。パソコンでspotifyを使って小型スピーカーで聴いている。最近はオーディオで音楽を聴いていない。

デイケアで数学の勉強会をやることになったので、その予習のために小学校の算数を勉強しているときが多かった。休みの日などは、六時間くらい勉強したときもあった。問題集の問題を解いている。図形の問題集、文章題の問題集をやっている。算数の勉強はそれなりに楽しく取り組めるけれど、それなりに疲れる。それで反動として、西田幾多郎を開いたり、最近はまたドストエフスキーを開いて読み始めた。算数の勉強は細々と続けることになりそう。

先日、spotifyキース・ジャレットのケルン・コンサートを通して聴いた。このアルバムを通して聴くのは、高校二年のころ以来だから、もう18年振りくらいになる。ジャズを聴き始めたころにこれを聴いたときは、この音楽のよさがほとんどわからなかった。長い演奏にも慣れていなかったし。

今、このアルバムを聴くと、クラシック音楽とも違うし、ジャズピアノとも違うし、とても変わった音楽だと思った。ギターみたいな弾き方をすると思った。左手の和音の弾き方が、フォークギターのコードストロークみたいに聞こえる。印象としては、ボブ・ディランがギターと歌でやっていたのを、ピアノ一つでやっているような感じがあると思った。

また、結構親しみやすい音楽だと思った。長尺の演奏だけど、聴いていて退屈しなかった。ところどころジャズでは聴き慣れないような和音だとか音階が出てきたり、ジャズの真ん中みたいなメロディが出てきたり。

ジャズは最近、ほとんど聴かなくなってしまった。最近は中学高校のときに聴いていたハードロック、ヘヴィメタルを聴きなおしている。

今日はドストエフスキーの白痴を拾い読みしていた。公爵が驢馬について話しているところとか、マリイという少女の話とか。

昨日、「バルタザールどこへ行く」という映画を見た。その映画はドストエフスキーの白痴、聖書から着想を得ているとのこと。映画のなかで、驢馬がいじめられているんだけども、これは罪と罰ラスコーリニコフが見る夢の中の場面を意識して作っているのだと思う。夢のなかで、幼いラスコーリニコフは市中でいじめられている馬を見て、かわいそうだと思って父親に、「あの人たちはなんで馬をいじめるの!」と泣いて尋ねる。この映画での驢馬の目つきは、まさにこのラスコーリニコフが見た夢の場面を再現しているのではないかと思う。この映画を見て、浮かんだ感想は、ただ一言、「驢馬がかわいそうだ」ということ。見ていて、痛ましかった。この驢馬はどこへ行くのか。

ドストエフスキーはやはり、ちゃんと読んでみたい。白痴も途中までしか読んでいないので、最後まで読みたい。白夜なども読んでみたい。

いま、spotifyで、キース・ジャレットのレイディアンスというアルバムを聴いている。いい音楽に出会えた。

心の支え

小学校の勉強をやっている。なんでもいいから、前向きに取り組める物事があるのはいいことだ、と考えることもできる。

常に恐怖がある、自分は見当はずれな物事に時間を人生を費やしているのではないかという恐怖。何かに取り組み始めても、すぐにその恐怖が出てきて、取り組むのをやめてしまう。継続は力というし、続けなければ何事も成し遂げることはできない。

何が続いているか?音楽を聴くこと、これは続いている。ぼくは中学生のころに音楽を聴き始め、それ以来ずっと毎日音楽を聴き続けている。

音楽はあまりこちらを裏切ることがない。でも、音楽を聴いて何も感じないときも多い。それでも毎日、懲りずに聴き続けているから、たまに音楽を聴いていて幸福な気持ちになるときもある。

心の支えはなんだろう。ドストエフスキーの小説が心の支えとなっていると思う。ドストエフスキーの小説から長い間離れていると、虚ろな気持ちになる。二日も離れていると、暗い人生観を持つようになる。ドストエフスキーの小説を読んでいる間は、見当はずれ云々の恐怖は感じないように思う。

要するに、ドストエフスキーの小説を読みたいというだけのことなのかも。やりたいことをやっていれば安心していられるし、やりたいことから離れていると不安になる。そう考えるととても単純なことだな。

いま適当にカラマーゾフの兄弟の第二巻を開いたら、アリョーシャの大地への接吻の話が出てきた。これは好きな場面の一つ。

小学校の勉強は、それはそれで面白みを感じられるのだけども、ドストエフスキーを読むこととどっちが切実かで言ったら、考えるまでもない。優先順位で言えば、ドストエフスキーだし、ドストエフスキーを何度も繰り返し読んでいたほうが、自分はおもしろい人間になれると思う。何よりも、生き生きとしていられる。

勉強よりも、読書のほうが楽しいのだと思った。小説の本、宗教の本。