喜び、悲しみ、透明な感情(獰猛な欲望)

今日は出かけてきた。朝、家を出る前に15分くらい練習した。夕方に家に帰ってきて、夕飯の前に15分くらい、夕飯を食べたあと、一時間ほど練習した。今日は一時間半ほど練習したことになる。でも、練習していると一時間なんてあっという間だな。一日に最低二時間は練習しないと、復習すらできない気がする。

今日はテンポ90とか100を鳴らして、8分音符でひたすら左手のシングルストロークのアップダウンの練習をやった。リズムパターンの練習もやった。

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練習していたら、涙があふれてきて、床にぼたりぼたりと落ちた。スティックを振ることの喜び。スティックをメトロノームに合わせて振りつづけていることは、自分にとって、失われた時間、人生を取りもどすための具体的な行為のひとつひとつなのだと思った。(2019.3.23)

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今日は外に出ているとき、胸のざわざわだとか、息苦しさが目立った。

家に帰って、ドラムの基礎練習を始めると、自分の感じているこの感情は、悲しみなのだと思った。練習をしているうちに、胸のざわざわは多少静まりつつあるように感じた。一時間半だけ練習できた。やはり目安としては、一日に三時間くらいの練習は必要かもしれない。

いま音楽を聴いている、モダンジャズを。楽しい。デューク・エリントンの『マネー・ジャングル』を聴き、デューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いた。どちらも好きなピアニストだ。

いま、エルヴィン・ジョーンズ『プッティン・イット・トゥギャザー』。エルヴィンのドラムも大好きだ。信じられない演奏。このような驚きを感じられることが嬉しい。エルヴィンはぼくにとって目標というか、理想的な指標の一つだ。

いま気づいたけど、かっこいいと思ったフレーズを一小節だけでも、譜面に書き出して、練習する手もあると思った。一曲まるまる採譜して練習するというのは膨大な時間が必要とされるし、非効率で現実的ではない。アイデアを盗むということ。例えば、いまエルヴィンの演奏を聴いていて、八分音符の二つ目、三つ目にバスドラムを入れるフレーズがあった。この部分だけでも、練習するとか。そういうやり方がいいのだと思った。

 


一撥の音色でも尊く取り扱う。承知しないと何回でもやり直す。そうするとなんとも言えない境地におかれてくるのです。それであまり調子にのり過ぎますと、自分で琵琶を弾いていて涙が出てくる。なんのために涙が出てくるかわからん。それは一種の感激でしょうね。それで自分で滑稽になって、これはいかんな、ひとりよがりしてはいかんなとときどき思うのですが、そういう境地に入ることがあるんです。ですから、こんな幸福なものはないと思います。(辻靖剛、『武満徹対談選』、ちくま学芸文庫、103-104ページ)

 

さっき、1小節1拍理論というものを思いついた。1小節なり、ひとまとまりのパターンを1拍と捉えられるまで、身体に覚えこませる。

あと、4拍8連理論。8分音符が1小節のなかに8つ並んでいる場合、4拍8連符として捉える。つまり、1小節の中で8等分されたものとして捉えない。8つの8分音符のそれぞれの長さを長くしたり短くしたりする。それで気持ちいいタイミングを探す。探すというか、好きなドラマーの演奏のタイミングを真似するというか。

アンドリュー・ヒルジャッジメント』を聴いている。ここでのエルヴィン・ジョーンズもものすごい。アンドリュー・ヒルのピアノがまず第一に素晴らしい。アンドリュー・ヒルも、一番好きなピアニストの一人だ。

 

でも今、私は音楽的な主張を持たない。前はあったけれども。そのことをネガティヴにとらえる人が多いんですが、これはネガティヴでもなければ、私は引退するわけでもないんです。(笑)(キース・ジャレット、『武満徹対談選』ちくま学芸文庫、165ページ)

 

明日はたくさん練習したい。

いせ源のあんこう鍋、安部公房、シュルレアリスム、細野晴臣

夕飯は神保町のいせ源であんこう鍋を食べてきた。初めてのあんこう鍋。知らない世界を一つ新しく知ることができて、よかった。いせ源の前に、神保町のさぼうるという喫茶店でコーヒーを飲んだ。

移動中は安部公房『友達・棒になった男』(新潮文庫)という戯曲集を読んでいた。「友達」を読み終えて、いま「棒になった男」。ものすごい。こんなにすごい小説世界があるとは。難解といえば難解なんだけど、楽しむことは容易で、エンターテインメントしていると思う。単純にこの小説世界をかっこいいと思って読み進められるし、意味を深読みするのも面白いだろうし。ぼくなんか深く考えないで、自分は今ものすごいものに触れているというひりひりとした興奮を得られれば十分だろうと思う。音楽を聴くのと同じかな。バッハ、武満徹セシル・テイラーを聴くのと同じ。

安部公房の小説に初めて触れたのは、高校二年のとき。『壁』という小説を読んだ。あれはまさに衝撃だった。その当時、ジャズを聴き始めていて、同じ時期にチック・コリアの「スペイン」のライブテイクだとか、スーパー・ギター・トリオの「地中海の舞踏」、マハヴィシュヌ・オーケストラパット・メセニー・グループといった音楽に出会って、自分の知らない世界に興奮していた。

安部公房の小説世界も、そのような新しい世界として、新鮮に感じられていた。確か初めて読んだ小説がその『壁』だったんだけど、本を読み慣れていない当時の自分でも楽しめた。こんな面白い本があるのか、文学というのはこんなにかっこいいものなのかと、とてもわくわくしながら読んでいた。

小説中に出てくる、とらぬ狸がいっているシュールリアリズムという言葉が気になって、これがシュールというやつなのか、と思った。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を読んだのは、数年後の大学二年のときだった。映画『アンダルシアの犬』も、大学二年のときに見た。シュルレアリスムは、ぼくにとって憧れというか、自分は芸術に憧れていて、自分が特に興味を持ったのはシュルレアリスム(超現実主義)だった。自分がドラムを演奏する方法論としても、シュルレアリスムはよりどころとなっていた。

さぼうるでは、細野晴臣泰安洋行』が流れていた。ドラムは林立夫。昨日、ドラムマガジンでの林立夫のインタビューを読んで感動したばかりで、今日も家を出る前に荒井由実の後ろでの林立夫のドラムをずっと聴いていたから、すごい偶然だと思った。ちょうど『泰安洋行』をはじめとする細野晴臣トロピカル三部作などのアルバムも聴きなおしてみたいと思っていたところだから、びっくりしたのと同時に、必然な気もした。

神保町で三省堂書店にも寄ったけど、やはり大きな書店は楽しい。朝日新聞がアンケートを取った、平成の本ベスト30というのも全部一か所に並んでいて、一通り手に取って目を通してみた。一位が村上春樹1Q84』。東浩紀『観光客の哲学』も、初めて手に取って立ち読みしてみた。予想外に、文体が心地よく、結構おもしろそうだと思った。ドストエフスキーについての章だけおおまかに目を通した。あと『チェルノブイリの祈り』という本が気になった。文庫本のコーナーにも行ったけど、ボルヘスの『伝奇集』はやはり拾い読みしていてわくわくした。こんな世界があるのだ、と。『巨匠とマルガリータ』もやはり最後まで読みたい、と思ったり、『ヘーゲルからニーチェへ』も最後まで読みたい、と思ったり。やはり本も読みたいな。ドラム中心にやっていきたいと思うけど。そこに今は迷いはない。

ドラムスティック買った

新しい四月始まりの手帳を買った。いま使っている手帳とまったく同じレイアウトの手帳。表紙の色と材質が違うけど、中のレイアウトはほぼ同じ。

 

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楽器店でスティックも買った。スティックを買うのはいつ以来だろうか。たぶん最後にスティックを買ったのは、24歳のころだ。いま33歳だから、九年前。本当に初心を思い出すというか、中学生のときの感じを思い出す。ドラムのスティックに材質の違いがあるなんて知らなかった。昨日ネットでスティックの選び方を調べて初めて知った。ヒッコリー、オーク、メイプルの三種類あるのだと。知らなかった。当初買う予定だったパールの110HCというスティックは、実際に手に持ってみると太いと感じた。別のパールの7HCというやつのほうが普通の太さに感じられたから、それを買った。いまアマゾンで調べてみたら、この買った7HCというスティックは、細いスティックなのだと書いてあった。ビル・スチュワートモデルとほぼ同じ太さと長さのスティックとのことだった。ビル・スチュワートは結構好きなドラマーで、昔新宿のピットインにピアノトリオで来たときにライブを見に行った。よかった。

今回買ったスティックは、パールのヒッコリー材のとオーク材のスティックの二組。オーク材のスティックを見ていると、ぼくが中学生のとき、六歳年上の兄が(大学の軽音サークルでドラムをやっていた)、家でオーク材のスティックで枕をばしばし叩いていたのを思い出す。そうか、あのとき兄が使っていたのがオーク材のスティックだったのか、と昨日気づいた。兄は高校まで柔道をやっていたのだけど、なんで大学に入ったときにドラムを始めようと思ったのだろう?今度、そのことについて聞いてみよう。

兄が使っていたスティックは、握る部分が手垢で真っ黒になっていた。ずっとその光景を忘れていた。手垢で真っ黒になるほど、兄はスティックを持ってたくさん練習していたのだろう。ぼくは大学のときに半年くらいのあいだだけ、ドラムを必死に練習していたけど、スティックが手垢で真っ黒になったことなど一度もない。でも、兄がスティックを手垢で真っ黒にしていたこと、それはとても素晴らしいことなのだと思う。一つのことに真剣に打ち込む姿は、美しい。

 

ドラムといえば、ストロークがまともにできないこともずっとコンプレックスだったけど、レギュラーグリップがまったくできないことも、コンプレックスだった。ぼくはマッチドでしかできない。上で触れたビル・スチュワートはおもにマッチドで演奏しているし、レギュラーができないことは恥ずかしいことでもないのだと思うけど、でもレギュラーグリップでの演奏の視覚的な美しさに強く憧れるのも事実。ジャズドラムの教則本には、両方できたほうがいいことはいうまでもない、と書いてあった。

あと、チック・コリアの「スペイン」みたいな、いわゆるサンバキックを使う曲が演奏できないこと、これもずっと気がかりだ。できないことばかりだ。

ともあれ、スティックも買ったことだし、これから毎日練習パッドでストロークの練習をしようと思う。マッチドとレギュラー両方で練習する。レギュラーグリップにはとても憧れる。二つを使い分けられるといいと思う。ブライアン・ブレイドみたいに。

今日も、何度か自分の手の動きやモーションに味わいを感じるときがあった。喜びというのだろうか。時間の流れ方、感じ方が今までと違う。時間に厚み、幅が出てきたと感じる。気のせいだろうか、気のせいではない気がする。

雪解けか

先週、ジャズのライブを見たとき、二曲目と三曲目のときだったか、涙が勝手にどばどばと流れた。その涙は自分の感情と結びついたものではなく、ただ涙が出ただけなのだとそのときは思った。花粉症の人が涙を流すのと同じことだろう、と。音楽は聴いていて楽しかったけど、涙が出るほど感動しているのだとは思えなかった。かといって、店内に花粉がたくさん飛んでいるのだとは思えなかった。

 

このように考えることもできるかもしれない、ジャズドラムというものにぼくはずっと愛憎のようなものを持っていて、いや、憎むというのとは違うな、自分がジャズドラムにずっと憧れているのに、自分には演奏ができないこと、自分が今の病気になったことで、感情表現ができなくなったのだというふうに考えていたこと、自分は生命との接触を断たれてしまったから、音楽を演奏することはもうできないのだと考えていたこと。好きでないということにしてしまえば、自分が音楽を演奏できないという事実に直面しないですむ。

 

ライブを見て、自分はやはりドラムが好きなのだということを改めて思った。心の雪解けのようなものなのかもしれない。

 

さっき、音楽を聴くとき、小型スピーカの音量のつまみを回すこと、その動作に生きた時間の流れのようなものを感じた。このような感じはとても久し振りだった。音量のつまみを回すことには意味がある。つまみを右に回せば、音量が上がる。先の記事にも書いたように、そこに味わいを感じた。いまこのようにパソコンのキーボードを叩いているこの動作にも、味わいを感じている。時間の幅、厚みを感じる。今まで、時間は一点の瞬間、瞬間ともいえないゼロの点に縮まっていた。時間に厚みがなくなっていた。これは、時間が流れないということを意味している。しかし、今回感じている味わいということは、時間に厚みが出てきたというふうにもいえる。

 

時間がわかれば、人生がわかる。これは道元だっけ?

いつもと違う、味わい

今日は休み。今日はなんか普段と違う感じがする。穏やかな幸せをかすかに感じる。味わいを感じる。音楽に味が、アマゾンでドラム関係の本とかを物色していて味が、本を読んでいて味が、ほっともっとのチキン南蛮弁当を買って食べて味が、自分がこうして居るだけで、味が感じられる。なんていうのか、一秒一秒、何かを味わっている感じがする。時間が一秒一秒流れていることに、味を見いだしているというか。なんでこうなったのかはわからない。最近ドラムの練習を始めたことがよかったのかもしれない。一週間前にジャズのライブを見に行ったことがよかったのかもしれない。先週から作業所の時間が増えて、週に16時間になったことがよかったのかもしれない。今日は休みだから、たまたま気分がいいのかもしれない。

今日は九時に起きて朝食を作って食べ、午前中は『カラマーゾフの兄弟』を少し読んだ。ドミートリイの予審の部分は、ドミートリイの言っていることが支離滅裂で、言葉の意味をなしていないように見えるから、読んでいて退屈だった。さっき予審の部分が終わって、少年の群という部分、コーリャが出てくる話になってまた面白くなってきた。

さっき、アマゾンで『スティック・コントロールStick Control for the Snare Drummer)』という有名なドラムの教則本を買ってみた。有名なドラマーの多くがこの教則本を使って練習してきたのだと。ドラムの練習は当面はスタジオに入ったときにだけやろうと思っていた。家では一切やらないのがいいのではないか、と。でも、この教本を使って家で練習してみたい気もしてきた。

今日届いたデューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いているけど、とても素晴らしい。

障害の理解(社会復帰するさいに必要な自己分析)

自分の健康な部分を信じることも必要だと思った。ぼくは数年前から、自分にも健康な部分は残されているのではないかと考えた上で、どこからどこまでが健康で、また病的なのか、線引きをする作業を意識的に続けてきた。統合失調症と診断されたということは、精神的に病的な部分を多く持っているということだろう。けれども、病的といっても、健康な部分もあるはずだ。すべて病的ということはありえないだろう。まず、精神的に病的であるということがどういうことなのか、考える必要があった。(未だに、精神的に健康であることと、そうでないこととの違いがよくわかっていない。)

幸せに気づけることが大切なのだといって、幸せに気づくことができないことを非難するのはおかしい。幸せに気づくことができることが大切なのはいうまでもないことなのであって、それでも幸せに気づくことができないでいる人もいる。いま、この問題は衣食住の話ではなくて、共通感覚のことを念頭に置いて書いている。離人感のない、生き生きとした時間感覚、人間が生きていると感じられること、これこそ人間が感謝しなければならないことだろう。精神の健康――それは時間の健康、自己の健康とも言い換えられるかもしれない、それこそが幸せに気づくための条件の一つといえないか? 少なくとも、ぼくはそれを一度失ったと感じているから、それがいかに貴重なことであるのかがわかる。西田幾多郎は、衝突矛盾のあるところに精神があると言っている。

 

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。例えば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。しからばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在其物の性質より起るのである。かつていった様に、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。(西田幾多郎善の研究』、岩波文庫、p120-121)

 

例えば太陽に譬えてみるに、太陽は無限なる光線を発射する、此の光線が何かの物質のために其の進路を妨げられた時始めて物が見える。丁度そのように我々の我も亦太陽の如きものであって、無限なる働きを其の本性とするものである、この我の無限なる働き其者が何者かに衝突した時に始めて物が見えるわけである、即ち物が意識に上るのである。フィヒテはこの衝突を Anstoss (障碍)と呼んでいる。 絶対我は何によっても限定されない絶対無限の働きである。しかし我が我自身を限定した時即ちアンストッスに出遇った時に、我のはたらきが我自身を見るのである。(西田幾多郎全集第十四巻、111頁)

 

話を戻そう。精神的に健康であるということがどういうことなのか、これは簡単な問題ではないと思う。最初は木村敏分裂病精神病理学の本を手に取ったけど、この問題は精神科の問題というよりも、哲学の領域の問題なのではないかと思った。現に、上に引用した西田幾多郎の文章は、精神の健康について考える上でも参考になる。(精神の健康という言葉、なんか響きが俗的というのか、ジャーナリスティックというのか、週刊誌的な響きに感じられる。気のせいだろうか。)

西田幾多郎とか、鈴木大拙エックハルトドストエフスキーなどを読んでいるうちに、精神の健康、不健康の境界線を引くことは、簡単なことではないことがわかってきた。線引きを行うことは、そんなに意味があることに思えなくなってきた。けれども、それはいま自分がモラトリアム的な生活を送っているからであって、これから社会復帰が近づけば、自分の病気について、考えなくてはならなくなるだろう。障害の理解というのか、そもそも、障害の理解というのは簡単ではない。どこからどこまでが障害なのか。線引きが難しい。渾然一体となっている。やる気がないのは病気のせいなのかどうか。(病気のせいだろう。)疲れやすいのは病気のせいだろう、このあたりはわかりやすい。

何をどう読むかが問題

井筒俊彦『神秘哲学』が文庫化されたらしい。前に図書館で借りて少し読んで、これは手元に置いておきたい本だと思った。そのとき借りたのは井筒俊彦著作集の第一巻だった。そのとき、アマゾンでその著作集の第一巻の古本の値段を見たら、手が出ない値段だった。だから諦めていた。さっき、先月発売された岩波文庫版の『神秘哲学』をアマゾンで購入した。明日届くとのこと。

 

さっきはてなブログで、ものすごいブログを見つけた。衝撃的だった。

 

さっきから、イヤホンでソフト・マシーンの『収束』を聴いている。アラン・ホールズワースのギター。ぼくはプログレッシブ・ロックにはあかるくない。高校生のときに、ピンク・フロイドキング・クリムゾン、イエスのアルバムをそれぞれ何枚か聴いていたという程度。

 

とにかく本を読むことが大切だと思った。昨日、努力しないで過ごす勇気も必要だということを記事に書いた。本を読むことが努力と感じられるわけでもない。本を読んでいる時間を増やす必要があるんじゃないか。本を読みたいという気持ちを抑えこむわけにはいかない。問題は、どのように本を読むか、だ。

努力しないで過ごす勇気を持つこと

夏目漱石とか村上春樹平野啓一郎あたりは、努力なしで読める。しかし、努力なしで読める本を読んでいると、落ち着かないときがある。努力することに対してこだわりなり執著があるみたい。努力しないで過ごす勇気も必要なのではないか。努力しないでいると、恐怖を感じるのかも。努力に執着するのは、恐怖の所産なのかも。成長しなければならない、前進しなければならない、という強迫観念。成長、前進(と考えるものごと)にかかわることをしないでもいいんだと、思えればいいのだと思う。「努力」しているときの充実感のようなものに魅力を感じるのも事実なのだろうけど。しばらく、エンターテインメントの本だけ読んでいようかと思った。(3.1)

 

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この文章は手帳に書き込んだものだから、誰かに読まれることを意識して書いたものではない。自分のため、考えをまとめるためだけに書いた。でも結果的に、こうして公開している。たまたま個人情報も書いていないし、公開しても問題はないと思う。裏に写っている文字にも、個人情報は書かれていないから、悪用されることもないだらう。

岩波文庫の古い版の米川正夫訳のドストエーフスキイカラマーゾフの兄弟』には、たまに誤植がある。上に書いたやうに、たまに、「こう言つた」とか、「そうなのであらう」とか、古い表記が直されずに印刷されている。それがまた味わい深くて魅力的なんだけれども。)

まさにドストエフスキーを読んでいるときのぼくは努力的なんだよな。努力的にならないと読めないということは、自分の読解力に見合っていない読書になってしまっているのかも。いや、でもゾシマ長老の話とか、面白い部分も多かった。大江健三郎を読んでいるときのぼくはもっと努力的だ。

努力なしで読めるものを読んで、何の意味があるのか、と思っている部分があるのだと思う。でもこれは自分の理解できない本が世の中にたくさん存在するという事実を受け入れることができないことから来ているのだろう。少しでも、理解できない領域を狭くしたいと思っているのかもしれない。それを向上心と呼んでいいのだろうか。あらゆることを知ることはできないし、あらゆる分野の専門家になることはできない。一人の人間が知ることのできる範囲は限られたものだろう。このような現実的でない理想形成は、やはり病的なものと言わなければならないだろう。自分の頭が悪いということ、自分がものを知らないということが(そのように感じていることが)、自分の偏った非現実的な実現不可能な理想形成に影を落としているのだろう。でも頭が悪いということ、これを思い煩う必要があるのだろうか? きりがない話じゃないか。

ともあれ、努力的でないcomfortとしての読書(comfortableな読書。慣れない英語を使ってみた)を意識してすることが大切だと思った。できないことをできるようにするというだけの読書に偏ってしまうと、読む本が偏るし、楽しみを制限することにもなる。

例えば村上春樹は、文章は非常に読みやすいけれど、内容はけっして簡単ではない。村上春樹いわく、簡単な内容を難しく表現するのではなく、難しい内容を簡単にわかりやすく表現するのが大切なのだと。それがいい文章なのだと。それは一般的によく言われていることだ。でも、ぼくは村上春樹の文章は読みやすいと感じるけど、文章そのものの美しさをあまり感じない。読みやすくて、どんどん読めるし、内容に入り込むことができるし続きが気になって止まらなくなるけれど、でも文章そのものの芸術的な美しさみたいなもの、古い文章を読んでいるときに感じる格調の高さのような、匂いをあまり感じない。

そのように考えると、漱石なんかはまさに格調高さと読みやすさ、面白さ、ユーモアを、すべて具備していると思う。

自分の無知の範囲を狭めるための読書は、結局ゲーム感覚なんだよな。できないことをできるようにする、という目的で本を読むのは、人生に真剣な姿勢といえるのかどうか。

背伸びしているうちに背伸びでなくなることも多い気もする。

 

He's a real nowhere man,
sitting in his nowhere land,
making all his nowhere plans for nobody. (The Beatles "Nowhere Man")

 

村上春樹夏目漱石平野啓一郎木村敏あたりは何の苦もなく読める。無理がない。どのような著者の本だと、無理なく読めるのか、探る必要があると思った。読書そのものは、自分にとって楽しみだと思う。

新聞を読む、外の世界を見る、勉強をする

新聞を読むことにした。いままで新聞を読む習慣がなかった。外の物事に目を向けることも大事なんじゃないかと思った。

 

いままで、心理療法精神病理学、哲学、宗教の本を中心に読んでいた。心理療法森田療法中心で、あと河合隼雄をいくらか読んだ程度。フロイトはまったく読んだことがない。精神病理学木村敏中心。哲学は西田幾多郎を少し読んだ程度。宗教は鈴木大拙とか聖書を少し、『宗教的経験の諸相』とか。

 

ここ一年くらいは、その手の本から遠ざかっていて、小説を中心に読んでいる。そのほうが自分にとって治療的と思われるのと、小説を読むことで外の世界に目を向けることができるのではないかと考えているから。漱石とか村上春樹とか平野啓一郎とか読んでいると、現実の物事に触れているという肌触りを感じることができる。抽象的な公式よりも、雑多な、具体的な事実に触れることを重視するべきなんじゃないか、という考えがある。それはジェームズ『宗教的経験の諸相』の冒頭に書いてあったことでもある。

 

どんなに深遠な公式であろうと、そういう抽象的な公式を手に入れるよりも、特殊な事実に広くなじんだほうが、ずっと私たちを賢くしてくれることが多いと私は信じているので、私は具体的な実例の数々をこの講義に盛りこんだ、そして、それら具体的な実例を、宗教的気質の極端に表現されたもののなかから選んできた。(ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』上巻、岩波文庫、9-10ページ)

 

まあともあれ、新聞を読むことから始めようと思う。新聞から始めて、いずれ実際の役に立つ勉強も始めたい。今までの人生で勉強をしたのは高校生のときの一年半だけで、勉強は基本的に苦手だ。小学校の算数から始めて、中学の数学の勉強もいずれやりたい。算数、数学、英語、政治経済、歴史あたりの基本的な知識は持っていたほうがいいと思った。

Abide With Me、アウグスティヌスに感動

夕飯のあと、自分の部屋で30分ほど音楽を聴いた。Thelonious Monk "Monk's Music"を聴いた。このアルバムは"Abide With Me"という讃美歌で始まる。机の上に乱雑に積まれた本を片づけ、整理した。最近はドストエフスキー木村敏大江健三郎を中心に読もうと考えていたけど、机に向かって机の本棚を眺めていると、読みたい本がたくさんあることに気づいた。アウグスティヌス『告白』(山田晶訳、中央公論社、世界の名著シリーズ)を開いて少し読んだら、これだと思った。ものすごい充実感だった。

 

いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい。(アウグスティヌス『告白』、69ページ)

 

この部分の註釈。

 

イスラエルの子らは、荒野において天上からくだったものを見て「マナ」といった。「これはいったい何だ」という意味である。しかし彼らは、そのわけのわからないものを食べて、荒野の旅をつづけることができた(「出エジプト記」一六・一五)。同じように、神の永遠の意味はわれわれによくわからなくとも、わからないままにのみこんでほしい。われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われるのだから。(同、69ページ)

 

完全に知られたと思ったとき、それはもはや神ではない。神は知られざることによってかえって知られるのである(『秩序論』二巻一六章一四節)。(同、69ページ)

 

ぼくは自分が共通感覚を失っていると考えていて、自分は神なるものを見いだしえないと考えている。しかし、よく考えてみたら、共通感覚に疵が入っているからこそ、共通感覚なるものがあるのだということを知ることができるのだし、それはつまり、「かえってあなたを見いだす」ということではないのか。

 

答えは、いつも問いについてくる。すなわち、問うことが、答えることなのである。しかし同時にまた、問いがなされないかぎり、いかなる答えも生まれないということを忘れてはならない。(鈴木大拙『禅』ちくま文庫、29ページ)

 

しかしながら、もし求めようとしないならば、すなわち、それを突きとめようとして特に心を傾けることがないならば、われわれはけっしてそれを把握することはできない。(同、30ページ)

 

しかし、ぼくはマナなるもの、つまり「これはいったい何だ」というものを食べることで荒野での旅をつづけることが、できているのかどうか。できていないのではないか。わからないものをわからないままにのみこんでいるといえるのだろうか。いえないのではないか。村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の中で、蛇は体内にとりこんだ食べ物を、長い時間をかけて消化する、という話が出てきた。ぼくは消化不良になっている気がする。鷲田清一が『哲学の使い方』という本の中で、思考の肺活量ということをいっている。わからないものをわからないままに、観察する姿勢が大事なのだと。判断を下してはならない。それと同じことを、村上春樹自身も言っていた。

 

われわれは、さまざまなものに支えられて生きている。正気を保っていられるものも、支えがあるからだろう。健康を保っていられるのも、安全な環境で生活できるのも、支えがあって可能なことだろう。「われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われる」。木村敏的に言えば、われわれは共通感覚によって養われている、ということになるだろうか。神とか絶対無を共通感覚と言い換えていいのかわからないけれど。

 

Abide with me; fast falls the eventide

The darkness deepens; Lord with me abide

When other helpers fail and comforts flee

Help of the helpless, O abide with me

 

(われと留まれ。夜が落ちる。

闇が深まる。主よ、留まれ、われと。

助けがとどかず、慰めが逃げるなら、

無力なものの救い主よ、おお、われととどまれ)

日暮れて四方は暗く - Wikipedia