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いま、ブログはアメブロのほうをメインに更新しています。いちおう、このアメブロのプロフィールをここに転載しておきます。

 

 

 

診断は統合失調症です。

離人症、じっとしていることが難しいというような落ち着かなさ・焦燥感、息が苦しくなったり、目が見えているのに見えていないように感じたり、手足ががくがく震えるような感じがすること、考えや行動がそのときどきにころころと変わることなどが主訴です。

現在の病気に発展する前は、数年間、離人神経症と診断されていました。

本を読み、音楽を聴き、楽器に触るのが趣味です。

好きな著者は西田幾多郎鈴木大拙木村敏エックハルトウィリアム・ジェイムズニーチェキルケゴール井筒俊彦夏目漱石村上春樹大江健三郎安部公房ドストエフスキー平野啓一郎などです。

音楽はモダンジャズが中心です。学生時代にジャズドラム、フュージョンのギターなどをやっていました。大学六年目に現在の統合失調症を発症し、大学は中退しました。楽器もそのときにやめました。その後、十年くらいを経て、また楽器を再開しました。

自分は音楽なるものから分断され絶縁されているという確信を持っているのですが、それがどれくらい妥当なのか、あるいは誤りなのか、それを見きわめるために楽器に触れているといってもよいと思います。自分は音楽、人間、生命なるものと絶縁されているという確信は、どれだけ正しいのか。最近は、ドストエフスキーを読んで、疑念と信仰が表裏一体の関係となっているような状況があるんじゃないか、と気づきました。ぼくが音楽と、生命、人間と絶縁されているという考えは、もしかしたら思い込みによるところが多いかもしれない、と考えるようになりました。

旧ブログ、「おもに読書記録」

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無目的の目的、キルケゴール的な絶望、西田幾多郎の善、パウロ

ぼくは病気になってから感情の動きがとても弱くなったんだけど、少しはましになったのかもしれない、けれども普通の人と同じくらいとまではいかない。そもそも普通の人というのが、どれくらい感情動いているのか知らないけど。確認しようもない。だから、ぼくの感情の動き方は普通といっていいんじゃないか、と思い込んでいたけれども、でもやはり普通の健康な人はもっと感情動いているだろう。診断書には、全般的なエネルギー水準の低下、と書いてあった。そのとおりだろう。生きるための意志が弱くなっても、生きていかなければならない。

ぼくが自分を健康者に近いものと思い込もうとしているのは、あまりペシミズム、ニヒリズムに陥ることのないようにするための防衛の意味あいもあるのだと思う。自分を病者として強く意識すると、絶望するほかなくなるのではないか。しかし絶望的な状況にあるのだから、その状況を正視しないのはもっと絶望的で、悪いのではないか。それこそ、キルケゴール死に至る病のような話になってしまうわけで。

キルケゴールはちゃんと読んだわけではないけど、でも絶望的な状況について絶望的な本を読んでも、実際的の役には立たないのではないかと思って、キルケゴールを読むのは避けてきた。けれども、絶望的な状況を正視せず、自分が絶望していることを見まいとするこそ、絶望的なのではないか。それこそキルケゴール的な絶望なのではないか。絶望を正視すること、それによって絶望が軽くなるわけではないのかもしれないけど、でもやはりキルケゴールは読んだほうがいいと思った。

何よりも、キルケゴールを読んでいたとき、充実感を覚えて、楽しかった。人生は無意味なのであって、なので無意味な本を読むのが最も自己に誠実な生き方といえるのではないか。有意味を騙っている本を読むのではなく、無意味であるということを踏まえて書かれてある本をこそ読むべきなのではないか。無意味な行いは、意義を持たないのではない。無意味であるかいなか、そのことと無意義であるかどうかは、別の問題なのだろう。無目的の目的、一無位の真人、というのはそういうことなんじゃないか。

目的というものを据えてしまうと、その目的に最短距離でたどり着ける手段が、より価値のあるものなのだということになる。目的が存在するところに、意味が生まれる。しかし、その目的そのものが見当外れであった場合には、その目的にたどり着くための手段もすべて無意味なものとなる。そもそも、人生に目的というものを据えることが正しいことなのかどうか。ぼくは正しいとは思わない。なぜぼくが仕方なしに人生に目的を据えるのか、それはぼくが病者になってしまったという事実があるからだ。

ぼくの理論では、神経症の水準、つまり現実との生ける接触が保たれている状態では、宗教、芸術、つまり生命との接触が保たれているので、その人は自己実現の過程的に生きることが可能だといえる。いえる、というだけでなく、西田幾多郎的にいえば、自己実現の過程的に、自己の声、無意識の声に耳を傾けながら生きることは善そのものであり、個人にとって義務であるとすらいえる。

ぼくは自分を、精神病水準、つまり現実との生ける接触の失われた状態にあると考えている。つまり、宗教、芸術、つまり生命との接触が失われていると考えている。だからこそ、自己実現の過程的な生き方、無意識の声に耳を傾けるような全人間的な生き方を諦め、小手先的な、姑息な枝葉末節のやりくりに終始するような、目的的な生き方を妥協的に選択するようになったのだ。自己実現的な、セルフ・リアリゼーション的な全人間的な生き方は、不可能になったのだから、自分がなおかつこの社会の中で生きていく以上、気に入らなくても、自分の意に反する生き方でも、妥協するほかにない。

しかし、自分は宗教、あるいは生命との接触を完全に断たれているのだろうか。完全に断たれているとする仮定は正しいのだろうか、妥当だろうか。鈴木大拙などの本を読み、宗教、あるいは生命について知解することは、自分が宗教との接触を失っているという考えを検証する上で必要なことだ。ぼくは、自分がそのような接触を失っていると考えているけど、それはまちがっているかもしれない。思い込みかもしれない。

ぼくは根本的に間違った目的に向かって動いているのかもしれない。そもそも、目的を設定するという生き方は、ぼくには合わないのではないのか。しかし、生活するためには、食っていくためには、それも仕方のないことなのだろうか。そもそも、ぼくが生命との接触を失わなければ、ぼくは生命との接触、そのことだけを相手にしていればよかったので、それこそパウロの「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれのうちにありて生くるなり」となる。しかし、ぼくは分断されたのだと考えている。

求めるかぎりにおいて得られる、原因結果同一の論、何故なしの生

ドラムの芳垣安洋が参加しているアルバムをいろいろ聴いてみたいと思って、iTunes に入っている曲で、彼が参加している曲だけを集めたプレイリストを作ったら意外と多く、107曲になった。ぼくは彼の参加しているアルバムはそんなに聴いていないから、これから聴いていきたいな。

 

最近、ぼくが、日本人で一番好きなギタリストは、内橋和久なんじゃないかと思った。日本人で一番好きなドラマーは林立夫だけども、でも芳垣安洋もとてもいいと思った。(そもそもこの二人は路線がまったく異なるので、比較はできないけれども。)となると当然、内橋和久、芳垣安洋ナスノミツルの三人によるバンド、アルタード・ステイツを聴こう、という話になる。アルタード・ステイツのアルバムは一枚だけ持っているけど、日本のプログレロックという感じで、ちょっとぴんと来ない。対して、芳垣安洋のリーダーの、ヴィンセント・アトミクスというバンドのアルバムは、とてもよかった。ベツニ・ナンモ・クレズマーも昔から聴いているけど、とてもいい。

 

アウトプットを通して得られるインプットがあるはずだ。ぼくもドラムは細々とでもいいから、続けていきたい。なんだかんだ言って、月に少なくとも四回くらいはスタジオに入って練習している。といっても家ではあまり練習していないのだけど。ぼくのドラムはまったく初歩で、今はクリックにジャストで合わせて、クリック音を消す練習をしている。フィルインというやつを入れると、クリックからずれる。

 

ぼくにとって、楽器を練習することは、自分の心の実在を信じることにほかならない。自分に心があるのかどうか。ぼくが楽器から十年ほど離れていたのは、自分の心は失われていたと確信していたからだ。心が失われた人が楽器をやったところで、意味はない、というそういう論法だった。しかし自分の心が失われているのかどうか、たとえ心が失われているのだとしても、楽器に取り組むことは必ずしも無意味とはならないのではないか。むしろ、楽器に取り組むことを通して、心が再び動き出すのを期待することもできるのではないか。

 

そもそも、心なるものを静止的に固定的なものとして捉えることは誤りだろう。今日少し読んだカントの『純粋理性批判』にも、真空を求める鳩の話があった。鳩は、空気の抵抗がなければ、もっとうまく飛べるだろう、と考えたのだと。心はどういったときに動き、存在するのか、ぼくにはそのあたりがあまりよくわかっていない。心は身体の外にあるとする説もある。心は静止的に固定的にあるのではなく、動きの中にある、とする考えもあるのだろう。それこそ西田幾多郎木村敏のいう述語の論理ということになる。ぼくには述語を体験する能力が失われているとずっと確信していた。だからこそドラムから十年も離れていた。でも、最近ドラムを再開して、自分にとってドラムをやることは自分の失われていたと信じていた述語性が、本当に失われているのかどうか、検証する作業にほかならないのだということに気づいた。

 

で、自分がドラムの演奏が下手なのは練習不足に由来するのであって、練習によって自分は上達するのではないか、と考えるようになった。以前は、自分にドラムができないのは、そもそも自分には述語性が失われ損傷されているから、根本的な意味で音楽を演奏することができないのだ、生命することができないのだ、というふうに結論づけていた。練習すれば改善するというような問題ではないのだ、そもそも生命の意志の問題なんだ、練習というのはあくまでも技術を鍛錬することであって、そもそも伝えたいことを持たない自分は、手段を洗練させようしたところで、無内容で寒々しい演奏しかできないだろう、とそのように考えていた。

 

しかし最近になって、伝えたいことを持っていないということがどうしてわかるのか、自分にもまだ何か伝えたい、他者と何か感情なり思想を共有したいという欲求を持っているのではないか、そういうふうに考えるようになった。そもそも、練習は技術の、手段の鍛錬であるのみならず、むしろ生きることそのものであるといえるんじゃないかと思うようになった。まず伝えたいことが自分の心の内側にあって、それを音楽という媒体、楽器という手段を用いて具現化、表現して、他人に伝えるという図式がそもそも間違っているのだと思うようになった。音楽という媒体、そうではない。音楽は手段ではない、目的そのものだ。音を出すことで感情を他者に伝えるのではない、音を出すことそのものが、自分の目的とする行為だ。そのように考えるようになった。

 

このような考え方をするようになったのは、エックハルト研究の田島照久の講義で、「原因結果同一の論」というのを聴いたことの影響もある。つまり、考えることで何かに到達するのではなく、考えることそのものがすでにみのりである、そのような話だった。私の花は実、という聖書の話。また、鈴木大拙の本にも、求めるかぎりにおいて得られる、というようなことが書いてあった。求めなければ、得られることはない。

 

エックハルトの思想に、なぜのない生という言葉もある。つまり、ぼくがドラムをやりたいと思うのは、ドラムによって感情を表現したいという言い表し方ではなく、ただドラムをやるということそのものを目的として、ただそれを欲するのだ、とこのように言い表したほうが正確なのではないか。なぜやるのか、それはただそれが好きだからだ、というほかないのではないか。ぼくがドラムを練習するのは、確かに上達を目的としているというふうにもいえるかもしれない、がその一方でドラムを練習するということそのものがすでに実りである、というふうにもいえるのではないか。

 

ともあれ、明日はスタジオに入って練習します。

禁止の効用

禁止する癖は、これもあるがままの自然なものだから、禁止することを禁止しようとすると、事態が複雑になる。禁止は仕方がない。禁止を禁止することなく、禁止を活用したい。(5.21)

村上春樹以外の本を読むことを禁止することにした。このように制限を設けないと、迷子になる。禁止することは悪いことだというふうに思い込んでいるから、禁止することは悪いことでもないし、みんなやっていることだ、というふうに理解したい。

ぼくは受験勉強をしていたとき、自分のやりたいことを禁止する習慣が身に着いた。それで、ぼくはその禁止する癖を直そうと思っていて、それで身体的なレベルで習慣化されている、禁止する癖を禁止しようという形になった。つまり、ぼくにとって禁止することは、instinct といっていいほどに、身体化している。だから、そのように天性自然な習慣となった禁止癖を否定禁止しようとすると、それは自分の自然を圧することになる。

とにかく、村上春樹以外の本を読むことを禁止してみたい。このような禁止というのは、目標を設定してそれを達成すべく努力するという過程であって、誰もが当たり前にやっていることだろう。

懸隔を感じない一体感って信用できるのかどうか

自分の見ている世界に満足してしまうことも多いけど、今までの人生でこの人の目で世界を見てみたい、と思える人に何人か出会った。ジブリの「耳をすませば」という映画のテーマはそれなんじゃないかとぼくは思ってる。自分以外の人の目で世界を見てみたいという気持ち。この人の目には世界はどのように映っているのだろうか、自分の見ている世界だけでは不十分なんじゃないか。自分の今までの人生はなんだったんだろう?自分は今まで、いったい何を見てきたのだろう?そのように思わせてくれる人と出会うことがたまにあるみたいだ。

 

埴谷雄高が、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』について言っていたと思うけど、「この小説の世界が現実であるならば、私の生きている世界は現実ではない。私の生きている世界が現実であるならば、この小説の世界は現実ではない。」というようなことを言っていたと思う。そう思わせられるほどに、埴谷雄高にとって、自分の生きている世界とドストエフスキーの小説世界との間には懸隔が感じられたのだと。

 

ぼくは今は、自分の見ている世界に満足していることが多い。それでいいのだろうか、という疑問もなくはない。中学一年の時にリッチー・ブラックモアというロックギタリストに出会って、ぼくは初めて自分以外の誰かになりたいと思った。それ以来、ぼくは、他人の目で世界を見てみたいと思って、自分を変えたいと思うことが多かったと思う。

 

自分の見ている世界と他人の見ている世界が違うのは当たり前のことだろう。でも、それが問題に感じられるのは、他人を理解したいと思ったときだろう。自分は自分、他人は他人、というふうに割り切って、距離を置いて考えることが難しくなるときがあるんじゃないか。自分の見ているものと他人の見ているものが違うのは当たり前のことだよ、と冷静に言い切ることができないときもあるんじゃないか。他人を理解したい、他人と同じ目で世界を見てみたい、と思うときがある。でもそう簡単に他人を理解できないし、同じ目で世界を見ることもできない。そのようなときに、孤独を感じる。

 

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』という小説は、他人と共有できる痛みをテーマにしていると思う。そもそも、我々は他人の痛みを理解することはできない、というのは本当だろうか。登場人物の一人が、そのようなことを言っている。

 

高橋源一郎が、まったく理解を絶した物事については、わからないということすらいえないのだ、というようなことを言っていた。埴谷雄高ドストエフスキー体験は、強烈な「わからなさ」体験だったんじゃないかな。懸隔を感じた、と言っているけど、懸隔を感じることのない一体感って、信用できるのだろうか。

地獄の季節

ぼくは昔、詩を書いていた時期があった。大学生のころ、もう十年以上前の話だ。そのころは、自分の目に映ったものを誤りなく正確に言語に置き換えるという決まりを守り、写真を撮るように、一瞬の時間目に映ったことを正確に言葉に置き換えようとしていた。自分の考えていること、すでに頭の中にある考えを言葉にするのではなく、また書きながら考えるのでもなく、向こうからやってきた一瞬の映像を言葉に置き換えること。ぼくはそれを幻視詩と呼んでいた。その当時、忘れたくない感情を経験することが、日常的に多かった。一日の中で、何度も、忘れたくない感情を経験した。夜寝る前に、今日一日で数か月分の経験をしたような気がする、と思うこともしばしばだった。何か形に残さなければ、自分はそれを忘れてしまう。写真を撮らずに、心に焼きつけるのだといった言辞もあるけれど、ぼくには心に焼きつけることなどできなかった。だから何かの形で残して、忘れないように記念とするしかなかった。自分の体験したものを形に残さずに永久に忘れ去ることが、怖かった。だからそれを言葉に置き換える作業は、失敗を許されないものだった。成功か失敗かということは、あくまでも自分の見たものをどれだけ正確に言葉に置き換えることができたか、ということを基準としていた。つまり、ぼくにとって文章の質、詩の出来不出来ということはまったく関心の埒外にあった。むしろ、その当時のぼくにとって重大なのは、自分の見たものを誤りなく言葉にして、形にして残すことであって、その文章を見た人がどう感じるかといったようなことに対しては無関心だった。どこかに、自分と同じものを見ている人がいるはずだ、そのような期待、確信だけがあった。傲慢だったのだともいえるだろうし、ぼくはそれだけ余裕がなかったのだと思う。

 

それで、いまその当時の詩を読み直すと、確かにいまのぼくには書けない内容なのだけども、でもやはり拙い文章だと思う。でもその一方で、迸りのようなものを感じる、気もする。下にその当時の詩の一つを貼りつけるけれども、やはり拙い、かな。いま下の文章、あるいは詩を読み直して、特に感動するわけでもないけれども、でも今の自分には理解のできない感情が表現されているように思う。ぼくはこの当時よりもある意味で健康になったのだといえるだろうし、この下の詩を書いていたときはある意味で今よりも狂気的だったのかもしれない。この当時はまだ統合失調症とは診断されていなかったし、主治医に訊いても、「まだ(統合失調症を)発症はしていない。神経症だ」と言われた。しかし、この詩を書いていた時期は、いわゆる統合失調症の陽性症状の出ている急性期にあったのかもしれない。しかし、主治医は前駆期、といっていたからそれが正しいのだろう。

 

2008年6月8日(日)7:12
自分が「生きていること」に少しも明るい展望が見出せないのです(自分の「未来に」、ではありません)。「これがあるから、生きていたいと思う」というのが、いまのぼくにはないのです。いままでは、どんなに一日を、毎日を生きていくのが過酷であっても、「生きていれば、こんなに良いものを見ることができる、だから死にたくはない」と思えるような、自分にとって重大なものを、たとえば音楽の中とかに、見出せていたのです。それが自分を生に繋ぎとめていたのです。いまは、自分に「生きていたい」と思わせるもの(どんなに小さなものでもいいのです。たとえば、夕飯を楽しみにするとか…)が、なくなってしまったのです。感じられないのです。ぼくは疲れているだけなのかも知れません。生きていることに、何も望むものがなくなっても、取り敢えずは生きているつもりです。再び、何かに憧れたり、何かを愛したりすることがこれから自分に訪れるかもしれません。取り敢えずは、それまで自分をこの世界に繋ぎとめていようと思います。でも、いまは涙が止まらないのです。いままでは、「生きていたい」と思って泣くことはしょっちゅうありました。でも、いま自分が泣いている理由はちっとも判りません。「自分は何も望んではいない」ということを素直に感じます。生きている人たちが馬鹿のようにさえ見えます。何もないのに。でも、死んでも何もない。生きていても何もないとしても、これから先、何かが訪れることを期待して、生きているしかないでしょう。でも、いまは世界が酷く、「からっぽ」に見えます。からっぽな世界に、80年も生きていて、それがいったい何になるというのでしょう。それがいまの感想です。でも、どうせ一晩寝ればこんな気持ちもなくなるのです。たぶん。どうせ明日には、アイコの音楽を聴いて「生きていたい」と思って泣いているに違いないのです。ぼくに死ぬことは絶対に出来ないでしょう。ぼくはたぶん、疲れているだけなのです。

 

 

煙草、ベルクソン

七か月振りに煙草を吸った。禁煙が終わったということだ。

 

昨日から風邪をひいていて、いま頭が痛い。風邪をひいているときの煙草って、けっこうきつい。

 

今日で連休は終わり。今日はサンマルクカフェで二時間くらい本を読んだ。ベルクソン「道徳と宗教の二つの源泉」。中央公論社の世界の名著シリーズに入っているのを読んだ。とても面白くて、すいすい読めた。これからこれを読み進めたい。

 

明日からまた作業所。風邪ひいているし、かといって休めるほど重症ではないので、いやだなあ。頭痛がして、頭がふらふらする。鼻、喉がつらい。

 

ベルクソンの本に、社会とか責務ということが書いてあって、われわれは社会から孤立することはできないのだということが書いてあった。また、義務というものはほとんどつねに自動的に遂行されていくものなのだと。社会復帰というものを目指しているぼくにとって、とても興味のある内容だった。

 

今まで、社会とか個人について考えたことがなかった。今まで自分が読んだり考えたりしてきたのは、おもに自分ということだとか、自己の底に他を見ることだとか、そういうことにかぎられていた。社会ということについて、また社会と個人の関係については一度も考えたことがなかった。だから、社会復帰といっても、社会って何、という感じだった。

 

久し振りに煙草吸いすぎたからかな、頭が痛い。

四連休、自分の見ているものを言葉にするのは難しい

久し振りに投稿しよう。

 

今日から四連休。何も予定は入れていない。こういうのはとても久し振り。二日続けて休みというのもめったにないけど、四連休となると一年振りくらいかもしれない。

 

やはり用事がないのは素晴らしい。もちろん、人と会って遊ぶこともそれにはそれの楽しみがあるけど、一人で過ごす時間もとても大事だと思った。自分探しというのかな、ぼくはずっと自分探しをしているけれど。一人で過ごしていると、苦しむときもあるけど、でも好きで苦しんでいるんだから、これはこれで幸せだと思えるときが多い。

 

でも、このように言葉で説明するのは難しいな。自分の体験、自分の見ているものを言葉に置き換えることは難しい。自分がどのような人間なのか説明するということは、物語をでっちあげることだから、小説的な能力が必要となる。自分とは何か、自分は何をするべきなのか、そのような疑問に答えるためには、小説的な虚構をでっちあげる想像力が必要となる。

 

そういえば村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』の冒頭のほうに、自己紹介の難しさについて書いてある。データが不足している、というやつ。データが不足しているため、回答不可能、取り消しキーを押してください、というようなやつ。小学生のとき、クラスの人たちを前にして自己紹介をする、そのさい周りの人たちを見ていると、自分のことを流暢に語る人が多い。この小説の主人公は、自己紹介が苦手で、自分について何が語れるのか、たった2分か3分の自己紹介で自分の何が語れるのか、そのように感じている。

 

自分はやさしい人間です、とか自分は積極的に行動するタイプです、というような自己申告にどれだけの信ぴょう性があるのか、主人公はそこに疑問を覚える。だから、なるべく客観的な事実と思われるもの、例えば「ぼくは犬を飼っています」とか「牡蠣フライが好きです」とか、そのようなこと。しかし、そのような客観的と思われることも、自分が改ざんしているのではないかと不安になる。嘘をついているのではないか、と。

 

しかし、それでも沈黙を選ぶのではなくて、主人公は語ろうと意志する。そういえば、村上春樹風の歌を聴け』の中でも、文明とは伝達である、伝達すべきものがなくなったとき、文明は終わる、というようなことが書いてある。小説の中の精神科医が言っていた。また、うろ覚えだけど、嘘と沈黙は悪であるというようなことも書いてあった。それにもかかわらず、我々はしばしば嘘をつき、黙りこんでしまう、と。しかし、我々が真実しか語らなくなったとしたら、真実の価値はなくなってしまうのかもしれない、とも。

 

ともあれ、他人に自己紹介をする機会がなくとも、自分が今日一日何をするか選び取るためには、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、といったことについての理解が必要となる。それはとりもなおさず、自分とは何か、ということだ。自分の歴史を自分なりの言葉で理解することだ。もちろん、自分の歴史についての理解は、一つだけではない。このような問題は、フロイト精神分析にも関係するのかもしれない。フロイトはちゃんと読んだことがないので、あやふやだけども。

 

心理療法の立場には、確かhere and now を重視して、過去について言語的な理解を進めることをむしろ禁止するような立場もあった覚えがある。森田療法なんかそれに近いと思う。言語的に自分の過去を理解、整理することではなく、手を動かすことが大事なのだということだったと思う。ぼくは一時期森田療法を何年間か勉強実践していたけど、言語的な理解を退けるような考え方に疑問を持っていた。それは結局、あるがままとか全人間的な解決ではなく、つまり生きることではなく、治療ということが第一に考えられてしまっているのではないか、と思った。森田療法心理療法であって、哲学でも思想でもない、神経症の治療を目的としている。治ろうが治るまいがどちらでもいいことだ、という立場ではない。

 

ぼくは森田療法に疑問を持つようになってから、村上春樹の小説とかユング的な方向に向かっていったけれども、結局いまの病気に発展してしまった。

 

何の話をしていたんだっけ。

 

最近は澁澤龍彦の本を読んでいる。いま『黒魔術の手帖』を読んでいるけど、とても面白い。

 

風の歌を聴け』に、主人公が女の子に「嘘つき!」といわれて、いや、彼女は間違っている、僕は一つしか嘘をつかなかった、というような文章がある。

喜び、悲しみ、透明な感情(獰猛な欲望)

今日は出かけてきた。朝、家を出る前に15分くらい練習した。夕方に家に帰ってきて、夕飯の前に15分くらい、夕飯を食べたあと、一時間ほど練習した。今日は一時間半ほど練習したことになる。でも、練習していると一時間なんてあっという間だな。一日に最低二時間は練習しないと、復習すらできない気がする。

今日はテンポ90とか100を鳴らして、8分音符でひたすら左手のシングルストロークのアップダウンの練習をやった。リズムパターンの練習もやった。

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練習していたら、涙があふれてきて、床にぼたりぼたりと落ちた。スティックを振ることの喜び。スティックをメトロノームに合わせて振りつづけていることは、自分にとって、失われた時間、人生を取りもどすための具体的な行為のひとつひとつなのだと思った。(2019.3.23)

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今日は外に出ているとき、胸のざわざわだとか、息苦しさが目立った。

家に帰って、ドラムの基礎練習を始めると、自分の感じているこの感情は、悲しみなのだと思った。練習をしているうちに、胸のざわざわは多少静まりつつあるように感じた。一時間半だけ練習できた。やはり目安としては、一日に三時間くらいの練習は必要かもしれない。

いま音楽を聴いている、モダンジャズを。楽しい。デューク・エリントンの『マネー・ジャングル』を聴き、デューク・ピアソン『テンダー・フィーリンズ』を聴いた。どちらも好きなピアニストだ。

いま、エルヴィン・ジョーンズ『プッティン・イット・トゥギャザー』。エルヴィンのドラムも大好きだ。信じられない演奏。このような驚きを感じられることが嬉しい。エルヴィンはぼくにとって目標というか、理想的な指標の一つだ。

いま気づいたけど、かっこいいと思ったフレーズを一小節だけでも、譜面に書き出して、練習する手もあると思った。一曲まるまる採譜して練習するというのは膨大な時間が必要とされるし、非効率で現実的ではない。アイデアを盗むということ。例えば、いまエルヴィンの演奏を聴いていて、八分音符の二つ目、三つ目にバスドラムを入れるフレーズがあった。この部分だけでも、練習するとか。そういうやり方がいいのだと思った。

 


一撥の音色でも尊く取り扱う。承知しないと何回でもやり直す。そうするとなんとも言えない境地におかれてくるのです。それであまり調子にのり過ぎますと、自分で琵琶を弾いていて涙が出てくる。なんのために涙が出てくるかわからん。それは一種の感激でしょうね。それで自分で滑稽になって、これはいかんな、ひとりよがりしてはいかんなとときどき思うのですが、そういう境地に入ることがあるんです。ですから、こんな幸福なものはないと思います。(辻靖剛、『武満徹対談選』、ちくま学芸文庫、103-104ページ)

 

さっき、1小節1拍理論というものを思いついた。1小節なり、ひとまとまりのパターンを1拍と捉えられるまで、身体に覚えこませる。

あと、4拍8連理論。8分音符が1小節のなかに8つ並んでいる場合、4拍8連符として捉える。つまり、1小節の中で8等分されたものとして捉えない。8つの8分音符のそれぞれの長さを長くしたり短くしたりする。それで気持ちいいタイミングを探す。探すというか、好きなドラマーの演奏のタイミングを真似するというか。

アンドリュー・ヒルジャッジメント』を聴いている。ここでのエルヴィン・ジョーンズもものすごい。アンドリュー・ヒルのピアノがまず第一に素晴らしい。アンドリュー・ヒルも、一番好きなピアニストの一人だ。

 

でも今、私は音楽的な主張を持たない。前はあったけれども。そのことをネガティヴにとらえる人が多いんですが、これはネガティヴでもなければ、私は引退するわけでもないんです。(笑)(キース・ジャレット、『武満徹対談選』ちくま学芸文庫、165ページ)

 

明日はたくさん練習したい。

いせ源のあんこう鍋、安部公房、シュルレアリスム、細野晴臣

夕飯は神保町のいせ源であんこう鍋を食べてきた。初めてのあんこう鍋。知らない世界を一つ新しく知ることができて、よかった。いせ源の前に、神保町のさぼうるという喫茶店でコーヒーを飲んだ。

移動中は安部公房『友達・棒になった男』(新潮文庫)という戯曲集を読んでいた。「友達」を読み終えて、いま「棒になった男」。ものすごい。こんなにすごい小説世界があるとは。難解といえば難解なんだけど、楽しむことは容易で、エンターテインメントしていると思う。単純にこの小説世界をかっこいいと思って読み進められるし、意味を深読みするのも面白いだろうし。ぼくなんか深く考えないで、自分は今ものすごいものに触れているというひりひりとした興奮を得られれば十分だろうと思う。音楽を聴くのと同じかな。バッハ、武満徹セシル・テイラーを聴くのと同じ。

安部公房の小説に初めて触れたのは、高校二年のとき。『壁』という小説を読んだ。あれはまさに衝撃だった。その当時、ジャズを聴き始めていて、同じ時期にチック・コリアの「スペイン」のライブテイクだとか、スーパー・ギター・トリオの「地中海の舞踏」、マハヴィシュヌ・オーケストラパット・メセニー・グループといった音楽に出会って、自分の知らない世界に興奮していた。

安部公房の小説世界も、そのような新しい世界として、新鮮に感じられていた。確か初めて読んだ小説がその『壁』だったんだけど、本を読み慣れていない当時の自分でも楽しめた。こんな面白い本があるのか、文学というのはこんなにかっこいいものなのかと、とてもわくわくしながら読んでいた。

小説中に出てくる、とらぬ狸がいっているシュールリアリズムという言葉が気になって、これがシュールというやつなのか、と思った。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を読んだのは、数年後の大学二年のときだった。映画『アンダルシアの犬』も、大学二年のときに見た。シュルレアリスムは、ぼくにとって憧れというか、自分は芸術に憧れていて、自分が特に興味を持ったのはシュルレアリスム(超現実主義)だった。自分がドラムを演奏する方法論としても、シュルレアリスムはよりどころとなっていた。

さぼうるでは、細野晴臣泰安洋行』が流れていた。ドラムは林立夫。昨日、ドラムマガジンでの林立夫のインタビューを読んで感動したばかりで、今日も家を出る前に荒井由実の後ろでの林立夫のドラムをずっと聴いていたから、すごい偶然だと思った。ちょうど『泰安洋行』をはじめとする細野晴臣トロピカル三部作などのアルバムも聴きなおしてみたいと思っていたところだから、びっくりしたのと同時に、必然な気もした。

神保町で三省堂書店にも寄ったけど、やはり大きな書店は楽しい。朝日新聞がアンケートを取った、平成の本ベスト30というのも全部一か所に並んでいて、一通り手に取って目を通してみた。一位が村上春樹1Q84』。東浩紀『観光客の哲学』も、初めて手に取って立ち読みしてみた。予想外に、文体が心地よく、結構おもしろそうだと思った。ドストエフスキーについての章だけおおまかに目を通した。あと『チェルノブイリの祈り』という本が気になった。文庫本のコーナーにも行ったけど、ボルヘスの『伝奇集』はやはり拾い読みしていてわくわくした。こんな世界があるのだ、と。『巨匠とマルガリータ』もやはり最後まで読みたい、と思ったり、『ヘーゲルからニーチェへ』も最後まで読みたい、と思ったり。やはり本も読みたいな。ドラム中心にやっていきたいと思うけど。そこに今は迷いはない。