日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ニーチェ、アプラクサス、翻されたる眼

「友があなたにおいて愛しているのは、非情の眼と、永遠に澄んだまなざしであるかもしれない。」(ニーチェツァラトゥストラはこう言った 上』(岩波文庫)、p94)

 

「あなたはあなたの友にとって、清澄な空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるだろうか?」(ニーチェツァラトゥストラはこう言った 上』(岩波文庫)、p94)

 

久し振りにニーチェを開いてみた。やはり、ニーチェの言葉は、重みが違う。鈴木大拙の本を読んでいても、同じように、大拙の言葉は重みが違う、と思う。密度が、他の人の本と比べて、違う。

 

誰かが、「一冊の本のなかで一行でも自分にとって印象に残る文章があれば、自分はその本を手に取った価値があると思う」というようなことを言っていたけど、それはオプティミスティックなように見せかけて、じつはニヒリスティックだと思う。本を開いて、その一冊のなかで一行でも印象に残る部分があるというのは、当たり前のことで、そんなことを言っていたら、本を開かなくたって、日常の生活のなかで、その一行に相当するような体験を体験することはできると思う。その印象の深度にもよるかもしれないけど、少なくともぼくにとっての鈴木大拙ニーチェは、自分の認識をがらりと変えてしまうような言葉を、一冊のなかで、たくさん書いている。それこそ、すべてのページに、そうした重みのある言葉を、書いている。たぶん、上に挙げたニヒリスティックな人は、自分にとって本当に大切な著者に出会っていないのだと思う。本ってのは、一行でもあたりがあれば十分というようなものではないですよ。ぼくのような本をろくに読まない人が言うのもなんだけど。

 

それで、最初に挙げたニーチェの一節について。「非情の眼」と、「永遠に澄んだまなざし」という二つの言葉を、肯定的な意味あいで使っているところを見て、まずがつんとやられる。こういうところは、ニーチェらしいと思う。わたしはあなたの「非情の眼」と、「永遠に澄んだまなざし」を愛しているということ。「永遠に澄んだまなざし」を愛するというのは、わかりやすい。しかし、「非情の眼」を愛するとは?こうしたところが、ぼくはニーチェらしいと思う。なんとなく、ヘッセの『デミアン』という小説を想起する。光の世界と、闇の世界。アポロン的なものと、ディオニュソス的なもの。これらの二つを統合したものを、ヘッセは作中で「アプラクサス」と言った。また、西田幾多郎は『善の研究』のなかで、われわれは神秘思想家ヤコブ・ベーメの「翻されたる眼」でもって世界を見るべきであろう、というようなことを言っているが、これも、「非情の眼」、「永遠に澄んだまなざし」を統合したまなざしと関係しているかもしれない。

 

「清澄な空気」であり、「孤独」であり、「パン」であり、「薬」であるような友に出会うということは、とても幸せなことだ。愛は孤独を訓える。

 

最初に挙げた、ニーチェのこれら二つの文章を読むだけで、ニーチェが無意識の問題とかかわっていたことがわかる。

 

また、「哲学思想というものは、われわれの日常と没交渉的だ」という人を、たまに見かける。ニーチェが哲学者なのかどうか、ぼくにはわからないが、少なくともニーチェの『ツァラトゥストラ』という本は(あるいは、この記事の最初に挙げた二つの文章は)、ぼくにとって、日常と没交渉的であるということはありえず、まさにぼくの日常を書いてくれていると思っている(もっとも、ぼくにとって「日常」というものが存在すると仮定した場合の話だが!)。