日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

エックハルトと鈴木大拙

ニーチェ『悦ばしき知識』(ちくま学芸文庫)は、66ページまで読んだ。かなり歯ごたえがあり、ほとんど意味が取れない。

 

それで、エックハルト『神の慰めの書』(講談社学術文庫)を読み始めた。そしたら、とてもわかりやすくて、おもしろい。いま、訳者によるまえがきを読み、本文に入ったところ。

 

「真実の、そして完全な従順こそ、一切の徳にもまさる徳であって、いかなる小事いかなる些事であっても、もしそれが真の従順をもってなされるならば、それはその有益さにおいて、弥撒朗読あるいは聴聞、祈祷、瞑想その他考え得べきいかなる事にも勝るのである。任意にどんなつまらない仕事でも考えて見よ、もしお前がそれを真の従順をもってなすならば、その仕事は一段とその品位を増し、尊いものとなる。」(M・エックハルト『神の慰めの書』、講談社学術文庫、p16)

 

これを読み、真っ先に鈴木大拙の『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)のなかのシモーヌ・ヴェイユに対する言及を思い出した。あと、鈴木大拙『日本的霊性 完全版』(角川ソフィア文庫)のなかの浅原才市の話。あと、鈴木大拙『無心ということ』のなかの受動性についての箇所も、思い出した。

 

たとえば、とても長くなるが、『無心ということ』(角川ソフィア文庫)から引用する。下に引用する文章は、上のエックハルトの言っていることと、完全に一致していると思う。

 

「それから第三に、今私どもが、ことに私が使おうとしている無心という意味なのです。これは何と言っていいか、あまりよくわかりませんけれども、宗教的と、こう言ったらいいかと思うのです。宗教的というと宗教という字がだいぶ臭味のある字であって、仏様の前に行って拝まなければ宗教じゃない、神様の前に行って拝まなければ宗教でないというように、形式的なものに見られるかもしれない。同時にまたある意味で迷信といってはおかしいが、そういうようにもとられるところの意味を持っている。宗教的な意味だというと、何かそんな方へもってゆくことになりはしないかと考えられるが、私の無心というのは、そんなものではなしに、たとえばキリスト教的に言うと、「御心のままに」というようなことなのです。神の御心のままにならせ給えという、そう「まかせ」主義のところのあるのを宗教的と言います。これが真宗の方になると、はからいをやめる、はからいのないということです。そういうところに宗教があると私はみたい。それから、前にも申しましたように、受動性というものがある。絶対的に受動の形をとって出る。自力を全く棄てて、そうして他力三昧になる。自分の意志というものをもたないで、神というものをいろいろに解するのだが、とにかく絶対の他者、他のもの、自分ならざるもの、絶対に自分の向うに立っていて、自分を全く包んでいるもの、絶対の他力と言ってもいい、そのものに任せること、これを宗教と言うのです。自分のはからいをもたずに神の前に自分を絶対的に没入させることです。そういうところに本当の宗教的なものがあると、こう言いたい。そういう意味の宗教です。

 

それからまた繰り返しますが、宗教は有り難屋や、アーメン屋などのものだと考えられるかしれませんが、そういうようなのは、必ずしも宗教や宗教家でないかもしれぬ。今言うように、自分をなくしてしまって、絶対の他、他力に自分の身を任せる、自分のはからいを容れないという風に、無心の意味を解するところに宗教があると思うのです。」(鈴木大拙『無心ということ』、角川ソフィア文庫

 

エックハルトと、鈴木大拙の関係は深いということか。