幻視詩
ウィリアム・ブレイクについてウィキペディアで調べていたら、「幻視詩」という詩のくくりがあることを知った。まことに、自分の見たものだけを書くことが、ぼくの美意識からすると、正しい。しかし、ぼくはなにも見えなくなった。要するに、幻視することがなくなった。昔は、もう一つの現実を見ていたというか、翻されたる眼でもって世界を見ていたというのか、自分の見ていたものというのは、言葉には簡単には変換できない種類のものであり、しかし、それをなんとか言葉に変換しようとしていた、そんな時期があった。たぶん、そのときに書いていたものは自閉的というか、狂気的というか、あまり多くの人の共感を呼び覚ますような内容ではない、幻視的でなくなったいまの文章でさえ、多くの人の共感を呼び覚ますようなものではないというのに。
しかし、ぼくは一生とは言わない、もう少し、幻視を視ていたかった。ぼくが幻視を体験していたのは、三年くらいのあいだだった。その当時は、「幻視」なんてものではなく、まさしく「現実」だと思っていた。純度の高い現実というか。離人症である自分にとって、幻視をとおしてしか現実を見ることはかなわなかったのだろう。
それで、「幻視詩」でヤフー検索してみたら、埴谷雄高の『幻視の詩学』という本が引っかかったので、アマゾンで中古で購入してみた。
ついでに、本棚から久し振りにヘルダーリン詩集、リルケのドゥイノの悲歌を引っ張り出してきた。読み直そう。
ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が
はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の列序につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも、わたしはその
より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。なぜなら美は
怖るべきものの始めにほかならぬのだから。われわれが、かろうじてそれに堪え、
嘆賞の声をあげるのも、それは美がわれわれを微塵にくだくことを