日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

146ページ

『やっぱり世界は文学でできている』は、146ページまで読みました。今日はここまでにしておきます。沼野さんが、二つの背反することを同時にやりなさい、もっと外国語を勉強しなさい、と言っていたので、自分も英語を勉強するか、と思いました。さっき、英文法の本をアマゾンで購入したばっかりです。あと、図書館で、コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』の英語の原書版を、予約しました。村上春樹も、マッカーシーの本は英語で読むとよい、と言っていました。

人工的な言語

そういうふうに日本の近代文学、あるいは日本の学問には、実際にはロシア語なり英語なりフランス語なりの基礎がある。そしてそれが百五十年間続く中で、われわれのように翻訳をしてきた人が寄ってたかって作りあげてきた、翻訳と混ざった日本語ができたわけです。その変な言葉を現代の日本語だと言いくるめて、それでみんなに教育を施して、「外国語で勉強しなくても、日本語だけで勉強ができますよ」と言える状況を、フィクションとして作ってきた。

 

だから、明治以降の日本にいる限り、使う日本語自体が実際はハイブリッドなものにならざるを得ない。そういう、英語やフランス語が奇妙に入り混じった異様な言葉を作り、その言葉を中国や朝鮮半島の人々が取り込んで、また異様な現代中国語や現代朝鮮語などを生み出していったという現実があるわけです。しかしながらわれわれには、世界を自分が生まれた後と生まれる前とに分けて考える傾向があって、生まれてから学んだ変な日本語を、生まれる前からずっと続いている本来の純粋な日本語だと思っている。実際はそうではなく、非常にハイブリッドなものなのに。だからこそ現代の日本の社会は、日本語を使うときに、人工的な言語で喋っていることを忘れられるようにできている。(都甲幸治)、(沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』、p137-138)

逃避の積極的な意味

逃避というと悪い意味で使いがちですが、逃げることは必ずしも悪いことではありません。逃げ道がないと人間は生きていけないというだけではなくて、それによって出会えるはずもなかったものに出会ったり、新しいものを知るという積極的な意味がある。(野崎歓)、(沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』、p71)

 

明日への活力

今回の禁煙は、ちょうど一日で終了しました。今回は、モチベーションが低かったのかもしれない。一日振りに煙草を吸っていて、太宰治が「明日への活力」という文章を書いていたような、書いていなかったような、ということを思い出しました。煙草を吸うことで、次の行動へ向かうことができる。たとえば、読書。

 

昨日は、夜、寝るのに三時間かかった。いつもは、五分くらいで眠れるのに。これも、煙草をやめたことと関係していると思う。当分は、煙草はやめられないのかな。やめたいんだけど。統合失調症の人の喫煙率は、そうでない人と比べてとても高いとのことだけど、統合失調症であるということは、そうでない人と比べて、禁煙をすることも難しいということなのだろう。

 

喫煙は、抗精神病薬の効き方にも影響を及ぼすらしい。落ち着かないなどの副作用を弱めることもあるのだと。ということは、禁煙を始めると、落ち着かなくなるということだ。

断絶

どのような言葉を発したとしても、発した本人にとって、そのときのその言葉が世界のすべてだったのかもしれませんが、発するだけではただの独り言になってしまうことがあるし、聞き手や受け手が言葉を発した者より大きな経験をしていることだってざらにある。詩というのは、経験の量の力比べではありませんよね。ともかく、この書き手と読み手との間にある断絶は、ものすごく大きいのではないかと思います。(亀山郁夫)、(沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』、p53)

 

ごまかしているだけ

デイケアに通っているけど、毎日をごまかしているだけだと思う。デイケアを出たあとは、たぶん作業所に行く。それか、アルバイトを始める。そうしてごまかし続けて一生が終わるのかね。かと言って、家でずっとなにもしないで休んでいたいのかというと、そうでもない。毎日が休みでなにもやることがないと、それはそれでたいへん。

 

いまの自分にとってなにが楽しみなのか。それは、食べること、音楽を聴くこと、本を読むことくらいだ。それだけあればじゅうぶんともいえるかもしれないけれど、音楽はかすかに楽しいと感じることもある、という程度で、本は読めないときのほうが多い。

 

いまの自分の置かれている状況のなかでは、どんなに考えても、どんなに努力しても、自分は毎日をごまかしているだけだという感じからは抜け出せないのだと思う。物理的に、そういう状態に置かれている。ごまかすことしかできない。いかに上手にごまかすか、を考えるしかないのかな。

「アウラ」のない状態は最悪

ベンヤミンは「もの」を見て「もの」としか見えない、人間を見て人間としか見えない、つまり「アウラ」のない状態は最悪だと考えているわけです。つまり、人間を見て、人間の中に精神的なある種のオーラを感じ、そこからある働きかけを受け取るのが人間のあるべき姿なのですが、『悪霊』という小説は、まさにその「もの」、あるいは人間でもいいのですが、そこからの働きかけを失った人たちの物語として読むことができるのです。(亀山郁夫)、(沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』、p37-38)

 

こうしたオーラを感じられないということ、このことをぼくは2010年の二月に統合失調症を発症してから、つねに感じている。上の引用について、ぼくはまったく同意する。

四冊

図書館に行って、アゴタ・クリストフ悪童日記』、辻原登東京大学で世界文学を学ぶ』、同『東大で文学を学ぶ』、沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』の四冊を借りてきた。沼野充義の本から読む。