日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ドラム雑記

数年振りに、キース・ジャレットの『スタンダーズ 1』を聴いている。さっき、エリック・クラプトンの『バック・ホーム』というアルバムを聴いていて、ちょっとスティーブ・ガッドのドラムが好きになれないということを再確認したんだけど、『スタンダーズ 1』でのジャック・ディジョネットのドラムを聴いていて、ドラムってやっぱりいい楽器じゃないか、と思った。スティーブ・ガッドのドラム、どこがいいんだろう。ぼくが好きなドラマーは、数え上げるときりがないけど、たとえばトニー・ウィリアムスエルヴィン・ジョーンズ、ジョー・モレロ、レックス・ハンフリーズ、ブライアン・ブレイドなど。他にもいくらでもいるだろう。エド・シグペンにはまっていたときもあったな。逆に嫌いなドラマー、あるいは好きになれないドラマーは、スティーブ・ガッド、デイブ・ウェックル。どっちもチック・コリアつながりだ。チック・コリアはなんでもっといいドラマーと組まないのか、と思っていた。ロイ・ヘインズとやっているトリオの『ナウ・ヒー・シングズ、ナウ・ヒー・ソブズ』は、とても好き。逆に全然よさがわからないのは、『フレンズ』、『スリー・カルテッツ』などや、アコースティックバンド、エレクトリックバンドの一連の作品。エレクトリックバンドの「ゴット・ア・マッチ」という曲はけっこう好きだけど、ドラムがデイブ・ウェックルじゃなければ、もっといいだろうと思う。ベースのジョン・パティトゥッチは、わりと好き。

 

いまチック・コリアの『スリー・カルテッツ』の一曲目を少し流してみた。10秒で止めた。ださい。品もへったくれもない。これって、いわゆる「ジャズ・フュージョン」じゃないか。つまり、この手の音楽を聴く人は、ジャズとフュージョンをいっしょくたにして、「ジャズ・フュージョン」という言い方をする。ジャズとフュージョンを一緒にするなよ、と思う。フュージョン、と言えばいいのに。

 

ジャズを聴く人間には二種類いる。スティーブ・ガッドのドラムをなんの違和感も感じずに聴ける人間と、違和感しか感じない人間。

叫ぶことと書くこと

彼女のパダボルン大学詩学講座を読んでみると、Schrei(シュライ=叫び)とSchreiben(シュライベン=書く)が並んでいる。音的に見ても、意味的に見ても、書くことは叫ぶことと複雑な関係にある。でも、実際に叫びを文字にできるのは、少しは恵まれた環境にある者だけである。自分の受けたい教育を受けることができ、小説や詩を書いている余裕のある環境に育つことは、どちらかというとめずらしい。多くの者は、叫びたくても声を持たないので、眼ばかり大きく見開いて、人間たちが壊れていく様子をまのあたりにしながら、聞こえない叫びの中で死んでいくしかない。又、書く代わりに本当に叫び始めてしまったら、精神病者ということにされてしまう。書くことは叫ぶことではない。しかし、叫びから完全に切り離されてしまったら、それはもう文学ではない。叫ぶことと書くことは、切っても切り離せない関係にある。この二つの単語は、言語学的にみて語源が同じなのではなく、一人の人間が生きてきた過程でもう離れられないくらい密接に結びついたものなのである。(多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』、岩波現代文庫、p28-29)

 

 

 

裏という概念

裏という概念は、表という概念なしに成り立たない。

 

なにを言っているのかというと、たとえば即興演奏は、裏をかき、演奏のすべてが裏になっていないといけない。出したい音を出すのではなくて、出したい音を「出さない」という反動によって演奏が支配されていなくてはならない。四分音符を出したいと思った場合、その瞬間は、四分音符を絶対に出してはならない。結果、出される音符は、八分音符だとか、三連符、十六分音符、二分音符、全音符などになるだろう。これは、自分の有意識、あるいは理性を信用してはならないということだ。無意識をこそ、表出しなければならない、それは自分の深いところにある欲望であるから。

 

ぼくが「統合失調症を発症した」と言っているのは、より正確に言えば、表という概念を失ったということだ。

コルトレーン

ジョン・コルトレーンの『ブルー・トレイン』を聴いている。大学一年の終わりごろ、居酒屋でアルバイトしていたときに、家でよく聴いていた。いまでも、これを聴くと、そのころの空気を、かすかに思い出す。

 

このアルバムでのジョン・コルトレーンの演奏は、ビブラートをあまりかけないのが特徴で、音色も太い。コルトレーンでよく聴いていたのは、このアルバムと、『マイ・フェイヴァリット・シングズ』、『ジャイアント・ステップス』くらいだ。あと、マイルスのバンドでの演奏。『カインド・オブ・ブルー』とか。あと、マイルスの『いつか王子様が』というアルバムでの表題曲のコルトレーンのソロは、ほんとうに素晴らしいと思う。いわゆるマラソン・セッションでのコルトレーンの演奏のよさは、まだよくわからない。そのころのコルトレーンの演奏は、どっしりしていないというか、へなへなしている。マイルスの『ワーキン』はよく聴いていたけど。

 

高校のころは、コルトレーンの『至上の愛』をよく聴いていたけど、これは最近は聴いていない。

「世界は文学でできている」シリーズ

いま、沼野充義『やっぱり世界は文学でできている』を読んでいて、あと少しで読み終わるんだけど、いまふとアマゾンで「沼野充義」で検索してみたら、この「世界は文学でできている」シリーズの第三弾、『それでも世界は文学でできている』が、今月の3月18日に発売されることがわかった。笑った。よっぽど人気のあるシリーズなんだな。実際、とてもおもしろい。第四弾は、「なおかつ」だったりして。

狂気的かも

ふと、自分と、自分の両親は生まれたときも違えば、年齢も違うのだということを考え、それはとても妙なことだと思った。自分と同じ瞬間に生まれたという人は、ほとんど、あるいはまったくいない、少なくともそうした人たちとは出会えないのだということ。自明性の喪失的というか、こういうことを考えておそろしくなる自分は狂気的なのではないかと思った。

ドイツ語圏

いま気づいた。自分は英語圏の本はほとんど読んでいないけど、ドイツ語圏の本は、いくらか興味深く読んでいる。とは言っても、数えられるくらいだけれど。ユングフロイトエックハルトニーチェ。このへんの人たちの本をこれから時間をかけて追求していきたいと思っている。ユングは『無意識の心理』を三分の二くらい読んだだけだし、フロイトは『精神分析学入門』を途中まで読んだだけだし、エックハルトは『エックハルト説教集』、あと『神の慰めの書』を三分の二くらい読んだだけだし、ニーチェは『ツァラトゥストラ』、『善悪の彼岸』を読んだだけなので、ぜんぜん深くは読んでいない。

 

かんがえてみると、目標をしぼるということは、とてもたいせつなことだな。自分は、西田幾多郎鈴木大拙河合隼雄木村敏をはじめとして(なぜかみんな日本人だ)、ドイツの哲学、精神病理学、心理学、神秘思想に関心があるのだと思う。となると、自分が学ぶべき外国語は、英語よりも、ドイツ語なのではないか。リルケの詩にも関心がある。ドゥイノの悲歌。美はおそるべきものの端緒である。

 

昨日も、トーマス・マンの『魔の山』を引っ張り出してきた。上巻の三分の一くらいまでしか読んでいないけど、この小説はもう十年前くらいから読みたい読みたいと思っている。ゲーテだってドイツ語で書いている。カフカもそうだ。フランス語で書かれた小説で関心があるのは、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』。これは、一巻の半分くらいまでしか読んでいないけど、とても印象深く、おもしろかった。これも、十年前くらいから読みたい読みたいと思っている。でも、大学二年のときに、大学の生協でこの本の一巻を買い、読んだときは、「自分は出会うべきものに出会った」と思った。

 

話が逸れた。

 

トーマス・マンカフカゲーテリルケヘルダーリン。自分はドイツの文学、哲学、心理学、精神病理学、神秘思想に興味を持っているのだと思う。

 

でも、英語とドイツ語を両方勉強するなんてできるのかなあ。ドイツ語を勉強しても、英語がまったくできないんじゃ、格好がつかないな。

 

いや、でも、ドイツ語を勉強するのは、いまはまだやめておこう。まずは、英語を勉強しよう。参考書も届いたばかりだし。

語学、トリストラム・シャンディが読みたい

ところで、先日アマゾンで購入した、『表現のための実践ロイヤル英文法』が届いたので、久し振りに英語を勉強できるといいなあ、なんて思っている。村上春樹が「無人島に持っていきたい」と絶賛していたから買ったんだけど、帯を見ると、翻訳家の柴田元幸も絶賛しているのだと。すごいね。

 

それで、なにか英語の原文で読みたいと思える本があるかどうか、と考えていて、なにもないことに気づいた。英文学って、なにも知らない。高校生のときに読んだ、ヘミングウェイの『老人と海』くらいしか知らない。『グレート・ギャツビー』も読んだはずなんだけど、なにも覚えていない。『白鯨』は、文章が素晴らしく、とても読んでいて心地よかったけど、まだ上巻の途中。『ライ麦』は、最初の数ページを読んで放置している。ポール・オースターの「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」という短編は、おもしろかった。レイモンド・カーヴァーも、レイモンド・チャンドラーも、トルーマン・カポーティも、リチャード・ブローティガンも、読んだことない。名前しか知らない人って、多い。名前はよく目にするんだけど、読んだことがないというやつ。あれだ、カート・ヴォネガットの『追憶のハルマゲドン』というやつは、半年くらい前に読んだ。あれは素晴らしい文章だったな。

 

それで、なんとなく、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』という小説がずっと前から気になっていて、これを英語で読むなんてのは、おもしろいんじゃないかと思っていて、とは言っても、日本語訳で読んだこともなくて、ただなんとなく、読んだことないけど、おもしろそう、という段階なんだけど、なんとなく、ぴんと来る。なんとなく、これは自分にとって大切な本なんじゃないか、と思う。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』に連なるような小説なのだと。これも読んだことはないけど。

 

まあ、ともかく、一冊でも、英語で読みたいと思える本があるといいですね、という話。

 

そういえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』も読みたい。あれも、文章が心地よかった。小説って、村上春樹以外のものはほとんど知らないので、いろいろ読みたいのがたくさんある。

言葉がもつれる

やっぱり、自分はしゃべるときに、言葉がもつれて、なに言っているのか意味不明になる。自分でも、変な日本語をしゃべっているな、と思い、苦笑いする。日本語の作文が非常に難しい。作文というのは、しゃべるとき。ふつう、しゃべるときは頭のなかで作文しながらしゃべると思うんだけど、その作文がうまくいっていない。見当はずれな作文をする。英語のできない高校生の英作文かよ、というような日本語を作文する。

Nile というブルータル・デスメタルバンド

YouTube で、Nlie というデスメタルバンドの Black Seeds Of Vengeanceというアルバムを聴いています。このアルバムは、確かぼくが中学一年のときに、デスメタル好きの友達から貸してもらいました。彼は、他にはクリプトプシーのCDも貸してくれました。こうしたブルータルデスメタルが好きな人だったんですね。間違っても、ソナタ・アークティカや、アングラなどは聴かないぞ、というような。たぶん、ブルデスが好きな人と、メロスピが好きな人とは対立しているはず。

 

いま改めて聴いていると、あまりおもしろくない。ただのブルデスで、エジプト音楽の要素は感じられない。たまにお経のようなものが入るけど、音楽と一緒にはならない。