日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

息苦しい、自分の病気の症状についていくつか

息が苦しい。過呼吸というやつだろう。ぼくの場合、胸のざわざわ感だとか、胸の中が空っぽの空洞になってその中を風がすーすーと吹いているというような感じに、息苦しさが伴っている感じ。これはとても苦しい。いまの病気になる前、神経症だったころは、自分にとって正しいこと、例えば聴きたい音楽を聴くとか、楽器の練習をするとか、大学の授業に出るとかすれば、一時的にこの息苦しさが収まるときが多かった。正しいことをすれば息苦しさが収まる、というような関係づけは、自分にとっては有効なナラティブ、物語だったと思う。

 

そして、いまの病気(主治医は統合失調症神経症の中間といっている)になってからは、この正しいことを見失ってしまった。いまの自分にとって正しいことがあるのかどうか、それすらわからない。これをすれば息苦しさが収まるというような、簡単な問題ではなくなっているように思う。

 

この息苦しさには、さらに目が見えているのに見えないような感じとか、手足ががくがく震えるような感じが伴うことも多い。このようなときは、何もできなくなる。とはいえ、何かをしなければ時間は過ぎていかないから、何かをしなくてはならない。何もできない、という感じを持ちながら、本を読もうと努めたり、ベランダに煙草を吸いに逃げたりする。

 

じっとしていられない。時間がなかなか過ぎない。時間がするすると過ぎていくこともあることはある。時間がとりあえずは過ぎたのだから、それで上出来だろう、と考えるときもあった。この時間の過ぎない感じが、作業所での作業の時間をつらいものにしている。作業所には週三日、一日三時間だけ参加しているけど、この三時間はとても長く、家に帰るとぐったりしていて、起き上がれないときも多い。極端に疲れやすい。

 

正しいことを見失ったというのは、どんな音楽を聴いても、楽器を練習しても、何をしても、この息苦しさが収まらなくなったということ。ずっと息苦しいわけではないけど、これをすれば息苦しさがなくなるというような、単純な構造ではなくなってしまった。

 

神経症だったころは、森田療法でいう恐怖突入すれば、自分は自分の欲しているところから逃げることなく、ちゃんと立ち向かっている、正しいことをしているのだという実感、充実感が得られた。これはとてもわかりやすい二極構造だった。自分は自分の欲するところから逃げているから苦しいのだ、自分の欲するところにちゃんと立ち向かえば、苦しみはなくなるのだ、というような。とても単純だ。

 

いまは、自分が何から逃げているのかもはっきりしないし、自分が何かに立ち向かっていると感じられるのは、本を読んでいるときくらいだ。だから、いまは読書ということにこだわっている。でも確かに、本を読んでいるときは比較的時間は普通に過ぎていくし、充実感、達成感も得られるし、楽しい。読書を通してこのような充実感などを得られなくなったとしたら、それは本当にまずい事態だろう。いまは少なくとも読書を通して、楽しみを得られる。自分が前に進んでいるという実感が得られる。

 

本当は、作業所に行かずに、毎日読書に打ち込みたい。しかし作業所の所長がそれを許してくれないし(ぼくにとって、どこにも通わないのはよくないことのように思う、のだと)、毎日家で本を読んでいるだけで、金だけ使っているのは世間体としてもよくない。所長は、「作業所をやめるとして、その先はどうするのか?」といっていた。もっともな疑問ではある。先がないのではないか。でも、いまが充実していれば、先はおのずと明らかになるのではないか、という思いもあるけど、それは楽観的過ぎるだろうか。未来というよくわからない不確実なもののために、現在を犠牲にするのが正しい生き方なのかどうか。

 

いまから一年と少し前に、作業所を三週間休ませてもらったときがあった。最初の一週間くらいは無事に過ごせたが、しだいに例の息苦しさ、目の見えない感じ、手足ががくがく震えるような感じがやってきて、落ち着かず、何もできなくなってしまった。一日中、家の中を歩き回ったり、ベランダに煙草を吸いに逃げたり、昼寝をしようと試みたり、端的にいって地獄的だった。そのときは、作業所などどこにも通わずにずっと家で過ごしていると、このような症状が強化されるのだろう、と判断した。だから、作業所には通ったほうがいいのだろう、と考えた。それでいまにいたる。作業所に通い始めてから、もう二年と少しが経つ。

 

この胸のすーすー感だとか、目の見えない感じを防ぐために作業所に通うというのは、動機としてはおかしいんじゃないか、とも思う。作業所に通うのは、本当は社会復帰なり就労を目指すためであるべきなんじゃないか。そのほうが、単純でわかりやすい。

 

ともあれ、いま記事を書いて二十分ほどがなんとか過ぎた。息はまだ苦しい。

村上春樹と漱石を読みたい

マルコ・ジ・マルコというイタリアのピアノトリオを聴いている。

 

読みたい本、気になる本はたくさんあるんだけど、優先順位をつけるのが難しくて、何から手を出したらいいのかがわからない。村上春樹は問題なく読み進められるんだけど、村上春樹以外にも読みたい本はある。漱石もわりと安全だと思う。『吾輩は猫である』は五回くらい、『三四郎』も六回くらい通読した。漱石の小説を全部読破するのがいいかも。漱石の作品は数としてはそんなに多くはないから、そんなに難しいことではないだろうと思う。いまは村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる。通読は四回目くらいか。

 

たしかに、このようにブログに文章を書くと、自分の頭の整理にはなる。村上春樹漱石を読めばいいんだ、というふうに、自分が何をするべきなのかが明確になる。ブログにも何も利点がないというわけではないのだろう。

 

今日は英語の勉強も少しだけやったけど、迷いを感じるというか、自分にとって英語の勉強に意味があるのか、という疑問が浮かんでしまう。

 

最近、家でじっとしていられず、読書に集中できないときとか、眠くて昼寝してしまいそうなときには、サンマルクカフェに行って本を読むことがある。いつもだいたい二時間くらい滞在する。その間は読書に集中できる。

 

ともあれ、今日もこれから本を読もう。今日は休みだったけど、特にこれといって何もしていない。村上春樹漱石を読めばいいんだ、ということがわかった。

ネット依存

自分はネット依存だな。いま気づいた。煙草に依存して、ネットに依存している。考えてみれば、ネットをやめたほうがはるかに生産的な時間を過ごせるだろう。一日に10分間だけというふうに制限して使うぶんには問題はないのだろうけど。煙草はやめるのは難しいから、ネットはほどほどにしておこう。

久し振りの更新

久し振りの更新。二か月くらい前から、英語の勉強を始めて、少しずつ勉強している。英語は大学に入ってからもう十二年くらい、勉強していない。で、自分のいまの英語力を知るために、とりあえずトーイックを受けることにした。あと十日くらいで試験なんだけど、おそろしく低い数値が出るだろうと思う。その低い数値が印刷された紙を見ることで、英語を勉強しなきゃ、という気持ちが出てくるかもしれないし、却ってやる気がなくなるかもしれない。

 

いまは高校生のときに使っていた、速読英単語必修編、上級編を読んでいる。

 

音楽は、ここ最近はビル・エヴァンスを聴くことが多い。『エクスプロレーションズ』、『グリーン・ドルフィン・ストリート』の二枚をよく聴く。マハヴィシュヌ・オーケストラをひたすら聴いている時期もあったし、バーニー・ケッセルの『ポール・ウィナーズ』をひたすら聴いている時期もあったし、トニー・ウィリアムス『イマージェンシー』をひたすら聴いている時期もあった。いまはビル・エヴァンス

「生き物」同士の出会い、井戸掘り、パウロ

ぼくには哲学といえるようなものはない。人生観というくらいのものならあるかもしれない。というわけで、人生観の話。

 

人生観にしろ、哲学にしろ、自分の心を問題にすることなんじゃないかと思う。自己を探求することがこれ哲学であるならば、ぼくの場合、自己自身が消えてなくなってしまったのだから、哲学はできないということになる。統合失調症になるまでは、自分の心について、常に考えていた。自分の心が失われかけていることについて。自分はどのような部分で世界とつながっているのか。世界とのつながりがほとんど失われていたけど、でもかろうじて世界とのつながりは絶たれてはいなかった。だから、その細いかすかなつながりを常に凝視し、考えていた。自分の関心の対象は、ただひとつ、失われかけている自己と世界とのつながりだった。そういう意味では、そのころの自分の生き方は、哲学的といっても差支えはないかもしれない。

 

自分の人生、生き方について考えることと、自分と世界とのかすかなつながりについて考えることとが、まったく同じことだった。ぼくは常に音楽について考えていた。ぼくが音楽と呼んでいるところのものは、世界といかにつながるかという問題そのものだったので、ぼくにとって自分の人生について考えることと、自分と世界とのつながりについて考えることと、音楽について考えることとは、すべて同じことだった。その当時はぼくは哲学書なんて一冊も読んだことがなかったし、哲学には関心はなかった。ただ、自分がその日その日を生き残ること、十全で後悔のない生き方をするためにはどうすればいいのか、あるいは音楽の可能性についてだけ考えていた。しかし、そうした生き方は、いってみれば、きわめて哲学的な生き方といえるかもしれない。

 

もちろん、こんなのはたんなる名づけの問題なので、哲学的なんかではないよ、といわれても仕方がない。別に哲学だろうがなかろうが、どちらでもよい。ただ、ぼくは自分の人生について、自分が世界といかにつながれるのか、人間といかにつながれるのかについて真剣に考えていたのは事実だ。身体的に考えていた、といえる。

 

いまの自分はどうか。端的にいえば、身体的に考えることができなくなっていて(身体というのは心を指す。もっといえば、無意識を指すといってもいいかもしれない。心の根柢。)、不自由な頭でいくらか考えているだけにすぎない。哲学というのは、あるいは生きるということは、そういうことではないはずだ。身体的に考えることなしに、生きることができるだろうか、できはしない。我々が生きているのではない、我々の身体が(もう一人の自分、あるいは生き物が)生きているのだ。断じて、生きているのは我々ではない、生きているのはもう一つの世界における自分だ。

 

また、そのもう一つの世界では、出会うべき人たちが出会う。想像の世界、妄想の世界といってもいいかもしれない。しかし、現にそうした世界は存在する。我々が生きているのではない、我ではないこの生き物が生きているのだ。そうして、自分以外の誰かも、同じように、「自分が生きているのではない、生き物が生きているのだ」と感じているに違いない。そうして、生き物同士が出会うことになる。それは想像、妄想の世界で出会うといってもよい。

 

村上春樹が井戸堀りといっていたことも、このことだろう。健康人の多くは、自分の生き物を多かれ少なかれ、抑えつけて生きているし、我は我である、と信じて生きている。しかし、世の中のうちには、我は我ではなく、生き物である、と感じている人もいる。そうした人たちは、井戸をいくらか深く掘り進めた人だろう。パウロが「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2・20文語訳)といったのも、そのことだろう。そうして、このような人たちにとっては、自分の生きているこの世界こそかりそめの世界であり、もう一つの世界、生き物と生き物とが出会う世界こそが、真実の世界なのではないだろうか。

ギターは続けていきたい、エピフォンカジノは素晴らしかった

今日は一時間だけスタジオに入って、一人でドラムという楽器に触ってきた。家に帰って録音を聴いてみると、音色がとても汚くて、聴いていられなかった。音色は練習してよくなるものではないので、ドラムはあきらめた。自分には向いていない。ギターなら、自分の出す音色は特に汚いとは感じないので、ギターはこれからもたまに弾いてみようかと思う。でもドラムはだめだ。

 

昨日だったか、楽器店で弾かせてもらったエピフォンのカジノというセミアコギターの音が、とてもよかった。前にフルアコも弾かせてもらったけど、これはとてもいまいちだった。やはりセミアコがいちばん太くて丸い音が出るっぽい。値段は確か六万円くらい。ギターの値段としては特別に高くはないけど、買うだけの金銭的余裕はない。

 

本は、数日前に西田幾多郎善の研究』を読み始めた。通読は四回目くらい。

七年ぶりにライブを見に行ってきた

今日は、というか日付としては昨日になるのかな、吉祥寺のサムタイムというライブハウスに、サックス奏者の竹内直のライブを見に行ってきた。素晴らしいライブだった。それぞれ素晴らしい演奏をしていた。特にドラムがすごかった。ドラムというのはこんなに可能性を持った楽器なのかと思った。ライブを見に行ったのは七年振りくらいだけど、この七年間に自分が聴いていた音楽はなんだったのだ、と思った。家で聴くのとも、ジャズ喫茶で大音量で聴くのとも、全然違う。家で普通の音量で聴くのが1、家で大音量で聴くのが3、ジャズ喫茶で大音量で聴くのが5としたら、ライブで聴くのは20くらいじゃないか。つまりジャズ喫茶で聴いているときの四倍は確実に感動した。家で普通の音量で聴いているときの20倍は感動した。

 

ぼくは七年前に統合失調症になって、音楽を聴いても何も感じなくなった。その上、ドラムの演奏もできなくなったから、ジャズのライブを見に行くことは、自分が演奏をできなくなった事実にじかに直面することになる。演奏ができる人、健康な心を持った人に対して、嫉妬も覚えるだろう。そういうわけで、家でジャズを聴くことも、最初の四年間くらいはできなかった。ジャズをいくらかでも聴けるようになったのは、ここ三年くらいの話だ。

 

それで徐々に音楽を聴いておもしろいと思うようになってきて、それで今回、思い切ってライブに行ってきた。ぼくは同じ場所に長い時間座っているのもつらいので、そういう部分も不安だった。二時間の映画をぶっ続けで見ることすら、ぼくにとっては大儀だから。今日の店は喫煙席があって、演奏を見ている間に煙草を吸うことができたから、なんとか三時間くらいの演奏をずっと見ることができた。

 

それで、ドラム、というかジャズドラムというのは本当にかっこいいものだと思って、感動した。自分のいままでの音楽に対する見方は大変狭いものだったんだと気づかされた。ドラムがこんなにすごい楽器だなんて、知らなかった。統合失調症になる前はいくらか知っていたかもしれない。ともあれ、ぼくもドラムを練習してみたくなった。

 

今日は特別な一日だった。人生観が変わるというのはこういうことなのかもしれない、と思った。

自室の机の現況

f:id:blue1632:20170524144051j:plain

 

f:id:blue1632:20170524144114j:plain

 

村上春樹の本を別の場所に移動して、代わりに西田幾多郎全集、鈴木大拙全集を持ってきた。

 

いまは西田幾多郎善の研究』の岩波文庫版(藤田正勝が解説を書いている、新しい版)を読んでいる。たぶん通読は四回目。一度目は旧岩波文庫版、二度目、三度目は講談社学術文庫版。