エックハルト

今日は、外出中は村上春樹ダンス・ダンス・ダンス 上』(講談社文庫)を読んでいた。それで、エックハルト『神の慰めの書』(講談社学術文庫)は、家で読むことに決めているので(かばんに入れると、折れたり汚れたりするかもしれないから)、さっき4ページだけ読んだ。この4ページがものすごい4ページで、今日はこの4ページを読めたから、もうこれで十分だ、と思えたくらい。途轍もなく内容のある4ページだった。(p44-47、「十一 人間は神を見失ったとき、神が彼に対して姿を隠し給いしとき、いかなる事をなすべきか」)

 

『神の慰めの書』は、いままでに自分の読んできた本のなかで(とは言っても自分のいままでに読んできた本の量などたかが知れているわけだが)、いちばんおもしろいかもしれない。西田幾多郎の『善の研究』に出会ったときもものすごい衝撃だったけど、そのときの衝撃に並ぶかもしれない。この『神の慰めの書』こそが、ぼくのいままでにずっと求めてきた本なのかもしれない。

 

ぼくはどこでエックハルトの名前を知ったのだろうか。たぶん、西田幾多郎の『善の研究』だろう。エックハルトベーメ、クザーヌスの名前は、『善の研究』で知った。ベーメと言えば、「翻されたる眼」の人という認識しかないけれど、ベーメももしかしたら、ぼくの気に入るかもしれない。ベーメの本は近所の図書館にも置いてないし、入手しようにも、絶版で、プレミアがついていて、おそろしく高価だから、買えない。

 

ところで、ぼくは西田幾多郎をどこで知ったのか。確か、あれは2010年くらいのことだ。ぼくは統合失調症をすでに発症していたが、なんとなくネットで老子荘子について調べていた。ぼくは高校のころに森田療法に出会っていて、大学時代は森田療法の実践に費やした。それで、森田正馬老子荘子についてなにか言っていたので、どんなものか気になり、2010年のそのとき初めて老子荘子についてネットで検索した。そしたら、ヤフー知恵袋の質問と回答のページが引っかかり、そこに西田幾多郎の名前があった。そのころは、西田幾多郎三木清の区別もついていなかった。大正時代の日本の哲学者という認識。それで、西田幾多郎について調べていると、日本で最初の哲学者であるということがわかった。アマゾンで検索もした。それで、『善の研究』のカスタマーレビューを読み、これはもしかしたら自分にとって重要な本なのではないかと直感した。中古ではなく、新品で、アマゾンで購入した。これは自分にとって重要な本だという直感があったから、新品で買ったのだ。そして、二日後くらいに届き、読んでみると、自分の直感が正しかったことがわかった。

 

それで、いま、エックハルトの『神の慰めの書』は、西田幾多郎の『善の研究』と並ぶくらいの本なんじゃないかと感じている。というか、この世に存在するあらゆる本のなかで、もっともすぐれた本なんじゃないか、という気がする(もちろん、ぼくにとって、ということだが)。アマゾンで見るかぎりだと、『神の慰めの書』のレビューの数は、『エックハルト説教集』のそれに比べて、かなり少ない。後者のレビューが数十件あるのに対して、前者のレビューは五件にも満たなかったと思う。『エックハルト説教集』もおもしろかったけど、『神の慰めの書』のおもしろさは、その比ではないような気がする。47ページまでしか読んでいないけど、赤線を引き倒し、ページの角を折りまくっている。本を読んでいる、という感じがする。こんなにもすごい本があっていいのか、というくらいにすごい。