日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

ソロ・ギターの練習が楽しい

先日アマゾンで購入した、菅野義孝『目からウロコのジャズ・ギター ソロ・ギター・スペシャル・アレンジ』という本が届いた。ギターの教本。久し振りにアコースティック・ギターを引っ張り出して、練習しているけど、おもしろい。ちなみに、ぼくはハード・ロックフュージョンの音楽しかギターでは演奏できないので、ジャズ・ギターは勉強したことがない。なので、音楽理論はさっぱりだし、五線譜も読めない。タブ譜しか読めない。この教本は、タブ譜で譜例が載っているので、ありがたい。(ちなみに、ギターはぼくにとって余技で、ぼくは大学時代、ジャズドラムをやっていた。)

 

震災に遭って大変な思いをしている人がいるというのに、自分は他人事で、そのような物理的な意味で大変な思いをしたことがない。もちろん、離人症統合失調症を経験しているので、精神的な意味ではじゅうぶん大変な思いをしてきていると言えると思う。のうのうと生きているおまえに、人生のなにがわかっているというのだ。

 

しかし、そんなことを言ったら、離人症も経験していない人に、現実のなにがわかるというのか、というふうにも言い換えられる。離人症は、現実感の欠損態だからな。でも、ぼくは離人症を経験していない人は現実をほんとうの意味で知ることができないというふうに短絡的に考えることはできないと思っているし、震災など、物理的に(震災は心理的な意味あいもあるだろうけど)大変な思いをしたことがない人は、人生をほんとうの意味で知ることができないというふうに考えるのも、短絡的だと思う。

移動し続けていなければならない

つねにつねに、秒単位で、落ち着かず、じっとしていることができないことが、きつい。これは、統合失調症になってから、ずっと間断なく続いている。つねに移動し続けていなければ、時間が過ぎない。移動というのは、たとえば本を読んだり、なにか行動すること。音楽を集中して聴くことはできない。オーディオの前に五分と座っていることができない。たまには休みたくもなる。けれど、ゆったりと休むことができない。

やがては自覚できなくなるかもしれないだろうから

自分が壊れていく、自分のなかの実質、人間性が失われていくのを現在進行形で目の当たりにする、そして時間の経過とともに、そうした自分の変化を自覚することもできなくなっていき、ついにはまったくの無自覚に陥る。それが、自分の末路か。ぼくはまだかろうじて、人間の美しさ、人間にとっての価値を思い出すことができる。しかし、以前、つまり統合失調症になる前は、嫌悪していて汚らわしいと思っていたような種類の人間を目にしても、以前ほどの違和感を感じなくなっていることに気づいた。麻痺している。麻痺もほどほどならいい。あまりにも人間に理想を求めると、人と関わるのに苦労するかもしれないだろうから。他人の欠点、欠損を見過ごす能力も、ある程度は必要かもしれないだろうから。

マコーマック、ランツァ、クロスビー

今日は、おもにジョン・マコーマック、マリオ・ランツァ、ビング・クロスビーの音楽を聴いていました。ジョン・マコーマックは、1910年代に活躍していた1880年生まれのアイルランドテノール歌手で、マリオ・ランツァは、1950年代に活躍していた1921年生まれのテノール歌手、ビング・クロスビーは1903年生まれのジャズ歌手です。いまウィキペディアで調べました。三人とも、まったくスタイルが違い、それぞれ個性的です。個性的といえば、このなかで言えばマリオ・ランツァがいちばん個性的かもしれない。迫力のある、声量十分の歌を歌う。

 

要するに、この三人の名前が一緒に挙がるのはめずらしいんじゃないか、と思った、ということ。

何者でもない

ぼくは一介の統合失調症患者であり、何者でもない。かつては、楽器の演奏にのめり込んでいたが、統合失調症になってからは、音楽がまったくわからなくなり、演奏もまったくできなくなった。自分にとってのとりえは、音楽を深く聴いていたことと、楽器を演奏できることだけだった。それらを失ったいまとなっては、自分にはなにも残っていない。

 

ぼくは非常に感覚的で、頭は悪かったし、言葉も知らなかった。感覚だけは、非常に鋭かった。統合失調症になってから、感覚も鈍くなり、知能もさらに低くなった。

磁力

それから、もう一つ、音楽のような文法で大切なのは、感情だ。わたしは記憶力が弱いので、新しい単語などなかなか覚えられなくて昔から苦労した。しかし口にした瞬間、自分の中で感情が動いた場合はすぐに覚えられることを発見した。すごく腹を立てて口にした単語は、一生忘れない。言われてすごく嬉しかった文章に出てきた単語も忘れない。心が動くと、単語は記憶に確実に刻み込まれる。子供は感情の起伏が激しいし、不満をまぎらわす方法をあまり知らないので、何か欲しい時はどうしても欲しいし、悲しいとすぐ泣いてしまう。感情が激しく動いているということは、言葉を覚えるうえでは有利なことかもしれない。(多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』、p86)

 

 

とはいえ

とはいえ、本を読まなければ、時間が過ぎていかないので、仕方なしに読むけど。他に時間の過ごし方がない。本は以前と比べれば、まともに読めるようになったかもしれない。それでもすらすらというわけにはいかない。長い時間読み続けることもできない。

やる気ない

今日は休みだけど、本を読もうという気にはなれん。時間があっても、やる気がないんだから、あまり意味がない。

 

このやる気のなさは、後遺症のようなもので、これから先回復することは見込めないのかもしれない。デイケアで訓練しているのは、やる気がなくても、やらなければならないことをいやいやながらもやる、という能力をつけるということ。

ドラム雑記

数年振りに、キース・ジャレットの『スタンダーズ 1』を聴いている。さっき、エリック・クラプトンの『バック・ホーム』というアルバムを聴いていて、ちょっとスティーブ・ガッドのドラムが好きになれないということを再確認したんだけど、『スタンダーズ 1』でのジャック・ディジョネットのドラムを聴いていて、ドラムってやっぱりいい楽器じゃないか、と思った。スティーブ・ガッドのドラム、どこがいいんだろう。ぼくが好きなドラマーは、数え上げるときりがないけど、たとえばトニー・ウィリアムスエルヴィン・ジョーンズ、ジョー・モレロ、レックス・ハンフリーズ、ブライアン・ブレイドなど。他にもいくらでもいるだろう。エド・シグペンにはまっていたときもあったな。逆に嫌いなドラマー、あるいは好きになれないドラマーは、スティーブ・ガッド、デイブ・ウェックル。どっちもチック・コリアつながりだ。チック・コリアはなんでもっといいドラマーと組まないのか、と思っていた。ロイ・ヘインズとやっているトリオの『ナウ・ヒー・シングズ、ナウ・ヒー・ソブズ』は、とても好き。逆に全然よさがわからないのは、『フレンズ』、『スリー・カルテッツ』などや、アコースティックバンド、エレクトリックバンドの一連の作品。エレクトリックバンドの「ゴット・ア・マッチ」という曲はけっこう好きだけど、ドラムがデイブ・ウェックルじゃなければ、もっといいだろうと思う。ベースのジョン・パティトゥッチは、わりと好き。

 

いまチック・コリアの『スリー・カルテッツ』の一曲目を少し流してみた。10秒で止めた。ださい。品もへったくれもない。これって、いわゆる「ジャズ・フュージョン」じゃないか。つまり、この手の音楽を聴く人は、ジャズとフュージョンをいっしょくたにして、「ジャズ・フュージョン」という言い方をする。ジャズとフュージョンを一緒にするなよ、と思う。フュージョン、と言えばいいのに。

 

ジャズを聴く人間には二種類いる。スティーブ・ガッドのドラムをなんの違和感も感じずに聴ける人間と、違和感しか感じない人間。