日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

2014年11月10日(月) 20時59分57秒

そういえば、一昔前に「コレジャナイロボ」というのが流行ったが、ぼくは2010年の2月に統合失調症を発症してから、ずっと「コレジャナイ感」を感じている。この感覚、いつかなくならないかなあ。自分の感覚を、受け入れられるようになるときは来るのだろうか。「コレジャナイ、コレジャナイ、ジブン ノ ジンセイ ハ コレジャナイ…」

 

デイケアに行くようになってから、少しは「コレジャナイ感」は薄れているような気がしないでもない。精神障害者の方々と話すようになったのが、よかったのか。普段、「精神障害者と接している」という感覚はほとんどない。彼らのうちの大半は、精神障害者に見えないし。ちょっと疲れやすい、というくらいの印象しかない。重症の人、気がふれている人は、デイケアの受け入れの審査の段階ではねられるからだろう。ぼくも、統合失調症としては軽症なのだと思う。

 

もっとも、軽症と言っても、ぼくにとっては演奏ができなくなった時点で、こんなのは自分の人生ではないと思っている。軽症で演奏ができないよりかは、多少重症でも演奏ができる人生のほうがいいんじゃないかと感じられるくらい。でも、それは重症になったことがないからそういうことが言えるんだ、とも言えるか。そもそも、「重症で演奏ができる」というのは矛盾しているわけだし。重症神経症は演奏可能だけど、統合失調症の人は、軽症でも演奏はできないということか。

 

いま、ホレス・シルバーの『ザ・トーキョー・ブルース』というアルバムを聴いている。曲目は、「トゥー・マッチ・サケ」であり、「サヨナラ・ブルース」であり、「ザ・トーキョー・ブルース」であり、「チェリー・ブロッサム」であり、「アー、ソウ!」である。「サヨナラ・ブルース」という響きが、個人的に気に入っている。

 

統合失調症の音楽家と言えば、トランペット奏者のトム・ハレルが有名だけど(彼の音楽は、ぼくもよく聴く)、彼は「自分が音楽を演奏しているのか、音楽が自分を演奏させているのか、自分にはわからない」というようなことを言っていて、それはミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」の対極にある状況だと思うし、本質的な意味では統合失調症的ではないということになるんじゃないか。また、彼は、「薬物治療のおかげで、こうして演奏できている」というようなことも言っていたとか。いずれにせよ、創造的な演奏ができるという時点で、彼は典型的な統合失調症ではないということだろう。

 

でも、ぼくも医師からは「統合失調症としては典型的ではない」と言われているのに、演奏はできないし、ミンコフスキー的だと思っている。「典型的ではない」と言っても、いろいろなタイプがあるということか。医師からは「典型的ではない」と言われているのに、「現実との生ける接触の喪失」的状況は、ミンコフスキーや木村敏に言わせると、統合失調症の本質的障害だという。典型的ではないけど、本質的ということか。典型的な統合失調症の人は、本質的な意味では統合失調症的ではない、ということか。木村敏は確かに、破瓜型、単純型の寡症状の病型を統合失調症のプロトタイプとしている。

 

でも、ネットを見ていると、統合失調症を自称している人で、かつブランケンブルク、ミンコフスキー、木村敏あたりの精神病理学を面白く読んでいるという人は、ほとんど、というかまったく見当たらない。陽性症状の顕著でない、寡症状の統合失調症の人は、とても少ないのかな。というか、「現実との生ける接触の喪失」という言葉を聞いて、ぴんと来る人がほとんどネット上に見当たらないというのは、ぼくにとっては驚くべき事実だ。いや、正確には、この「現実との生ける接触の喪失」を自覚できているということが、まれだということだろう。ある程度重症の統合失調症の患者は、自分が現実との接点を失っていることに、気づいていないのかもしれない。

 

ぼくが、主治医から「統合失調症と神経症の中間」と診断されているのは、この現実との接点を失っていることについて自覚的であるということを指してのことだったではないか。

 

また、妄想型の人で、このミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」という概念に共感できるという人は、どれだけいるのか。少なくとも、ぼくはネット上で自分以外の人が「現実との生ける接触の喪失」概念に共感する!と言っているのを見たことがないな。誰か言ってくれないかな。わたしは、ミンコフスキーの「現実との生ける接触の喪失」概念に共感する!と言ってくれないかなあ。

 

ミンコフスキーについてネットで調べても、精神科医か、哲学畑の人の書いた文章が引っかかるくらいで、統合失調症当事者の人がミンコフスキーについて言及しているのを見たことがない。なんで!?あれが「統合失調症」じゃないの?ミンコフスキーが、統合失調症の本質的障害と言っているじゃないか。本質的障害なのに、なんで統合失調症の人は誰一人としてミンコフスキーに見向きもしないのよ。だとしたら、答えは二つにわかれる。一つは、世の中の大半の「統合失調症」患者は、本質的な意味では統合失調症的ではない。もう一つは、ミンコフスキーの言っていることが、間違っている。

 

例えば、笠原嘉『精神病』(岩波新書、1998)には、巻末の注のところに、ミンコフスキー『精神分裂病』について、「この書物は今日も有用です」と書かれてある。これを信用するならば、ミンコフスキーの理論はまだ廃れていないということになる。

 

また、「現実との生ける接触の喪失」という概念は、当事者ではなく、医者から見た場合に有用なのであって、患者自身がこれを自覚することはそんなにないということか。治療上、有用なだけであって。

 

また、ぼくは自分を寡症状の統合失調症(つまり破瓜型、単純型の陰性症状主導型)と考えているけど、実は寡症状ではなかったんじゃないか。妄想はあった。つまり、妄想はなかったと思っていたけど、最近になって、前駆期のころは、特に妄想的だった、というふうに自覚できるようになってきた。ほんとうに、妄想というのは自覚するのが難しいものだ。どこからどこまでが現実に起こったことなのか、かなり判断が難しい。映画『ビューティフル・マインド』は、そういうところがとても上手く描けていたんじゃないかな。

 

つまり、ぼくは自らを寡症状と妄想していた、妄想の伴う陰性症状主導型統合失調症だった、ということか。この「自分は陰性症状主導型統合失調症である」という考えも、妄想だったりして。まずい、クレタ島パラドックスみたいになってきた。