日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

何をどう読むかが問題

井筒俊彦『神秘哲学』が文庫化されたらしい。前に図書館で借りて少し読んで、これは手元に置いておきたい本だと思った。そのとき借りたのは井筒俊彦著作集の第一巻だった。そのとき、アマゾンでその著作集の第一巻の古本の値段を見たら、手が出ない値段だった。だから諦めていた。さっき、先月発売された岩波文庫版の『神秘哲学』をアマゾンで購入した。明日届くとのこと。

 

さっきはてなブログで、ものすごいブログを見つけた。衝撃的だった。

 

さっきから、イヤホンでソフト・マシーンの『収束』を聴いている。アラン・ホールズワースのギター。ぼくはプログレッシブ・ロックにはあかるくない。高校生のときに、ピンク・フロイドキング・クリムゾン、イエスのアルバムをそれぞれ何枚か聴いていたという程度。

 

とにかく本を読むことが大切だと思った。昨日、努力しないで過ごす勇気も必要だということを記事に書いた。本を読むことが努力と感じられるわけでもない。本を読んでいる時間を増やす必要があるんじゃないか。本を読みたいという気持ちを抑えこむわけにはいかない。問題は、どのように本を読むか、だ。

努力しないで過ごす勇気を持つこと

夏目漱石とか村上春樹平野啓一郎あたりは、努力なしで読める。しかし、努力なしで読める本を読んでいると、落ち着かないときがある。努力することに対してこだわりなり執著があるみたい。努力しないで過ごす勇気も必要なのではないか。努力しないでいると、恐怖を感じるのかも。努力に執着するのは、恐怖の所産なのかも。成長しなければならない、前進しなければならない、という強迫観念。成長、前進(と考えるものごと)にかかわることをしないでもいいんだと、思えればいいのだと思う。「努力」しているときの充実感のようなものに魅力を感じるのも事実なのだろうけど。しばらく、エンターテインメントの本だけ読んでいようかと思った。(3.1)

 

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この文章は手帳に書き込んだものだから、誰かに読まれることを意識して書いたものではない。自分のため、考えをまとめるためだけに書いた。でも結果的に、こうして公開している。たまたま個人情報も書いていないし、公開しても問題はないと思う。裏に写っている文字にも、個人情報は書かれていないから、悪用されることもないだらう。

岩波文庫の古い版の米川正夫訳のドストエーフスキイカラマーゾフの兄弟』には、たまに誤植がある。上に書いたやうに、たまに、「こう言つた」とか、「そうなのであらう」とか、古い表記が直されずに印刷されている。それがまた味わい深くて魅力的なんだけれども。)

まさにドストエフスキーを読んでいるときのぼくは努力的なんだよな。努力的にならないと読めないということは、自分の読解力に見合っていない読書になってしまっているのかも。いや、でもゾシマ長老の話とか、面白い部分も多かった。大江健三郎を読んでいるときのぼくはもっと努力的だ。

努力なしで読めるものを読んで、何の意味があるのか、と思っている部分があるのだと思う。でもこれは自分の理解できない本が世の中にたくさん存在するという事実を受け入れることができないことから来ているのだろう。少しでも、理解できない領域を狭くしたいと思っているのかもしれない。それを向上心と呼んでいいのだろうか。あらゆることを知ることはできないし、あらゆる分野の専門家になることはできない。一人の人間が知ることのできる範囲は限られたものだろう。このような現実的でない理想形成は、やはり病的なものと言わなければならないだろう。自分の頭が悪いということ、自分がものを知らないということが(そのように感じていることが)、自分の偏った非現実的な実現不可能な理想形成に影を落としているのだろう。でも頭が悪いということ、これを思い煩う必要があるのだろうか? きりがない話じゃないか。

ともあれ、努力的でないcomfortとしての読書(comfortableな読書。慣れない英語を使ってみた)を意識してすることが大切だと思った。できないことをできるようにするというだけの読書に偏ってしまうと、読む本が偏るし、楽しみを制限することにもなる。

例えば村上春樹は、文章は非常に読みやすいけれど、内容はけっして簡単ではない。村上春樹いわく、簡単な内容を難しく表現するのではなく、難しい内容を簡単にわかりやすく表現するのが大切なのだと。それがいい文章なのだと。それは一般的によく言われていることだ。でも、ぼくは村上春樹の文章は読みやすいと感じるけど、文章そのものの美しさをあまり感じない。読みやすくて、どんどん読めるし、内容に入り込むことができるし続きが気になって止まらなくなるけれど、でも文章そのものの芸術的な美しさみたいなもの、古い文章を読んでいるときに感じる格調の高さのような、匂いをあまり感じない。

そのように考えると、漱石なんかはまさに格調高さと読みやすさ、面白さ、ユーモアを、すべて具備していると思う。

自分の無知の範囲を狭めるための読書は、結局ゲーム感覚なんだよな。できないことをできるようにする、という目的で本を読むのは、人生に真剣な姿勢といえるのかどうか。

背伸びしているうちに背伸びでなくなることも多い気もする。

 

He's a real nowhere man,
sitting in his nowhere land,
making all his nowhere plans for nobody. (The Beatles "Nowhere Man")

 

村上春樹夏目漱石平野啓一郎木村敏あたりは何の苦もなく読める。無理がない。どのような著者の本だと、無理なく読めるのか、探る必要があると思った。読書そのものは、自分にとって楽しみだと思う。

新聞を読む、外の世界を見る、勉強をする

新聞を読むことにした。いままで新聞を読む習慣がなかった。外の物事に目を向けることも大事なんじゃないかと思った。

 

いままで、心理療法精神病理学、哲学、宗教の本を中心に読んでいた。心理療法森田療法中心で、あと河合隼雄をいくらか読んだ程度。フロイトはまったく読んだことがない。精神病理学木村敏中心。哲学は西田幾多郎を少し読んだ程度。宗教は鈴木大拙とか聖書を少し、『宗教的経験の諸相』とか。

 

ここ一年くらいは、その手の本から遠ざかっていて、小説を中心に読んでいる。そのほうが自分にとって治療的と思われるのと、小説を読むことで外の世界に目を向けることができるのではないかと考えているから。漱石とか村上春樹とか平野啓一郎とか読んでいると、現実の物事に触れているという肌触りを感じることができる。抽象的な公式よりも、雑多な、具体的な事実に触れることを重視するべきなんじゃないか、という考えがある。それはジェームズ『宗教的経験の諸相』の冒頭に書いてあったことでもある。

 

どんなに深遠な公式であろうと、そういう抽象的な公式を手に入れるよりも、特殊な事実に広くなじんだほうが、ずっと私たちを賢くしてくれることが多いと私は信じているので、私は具体的な実例の数々をこの講義に盛りこんだ、そして、それら具体的な実例を、宗教的気質の極端に表現されたもののなかから選んできた。(ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』上巻、岩波文庫、9-10ページ)

 

まあともあれ、新聞を読むことから始めようと思う。新聞から始めて、いずれ実際の役に立つ勉強も始めたい。今までの人生で勉強をしたのは高校生のときの一年半だけで、勉強は基本的に苦手だ。小学校の算数から始めて、中学の数学の勉強もいずれやりたい。算数、数学、英語、政治経済、歴史あたりの基本的な知識は持っていたほうがいいと思った。

Abide With Me、アウグスティヌスに感動

夕飯のあと、自分の部屋で30分ほど音楽を聴いた。Thelonious Monk "Monk's Music"を聴いた。このアルバムは"Abide With Me"という讃美歌で始まる。机の上に乱雑に積まれた本を片づけ、整理した。最近はドストエフスキー木村敏大江健三郎を中心に読もうと考えていたけど、机に向かって机の本棚を眺めていると、読みたい本がたくさんあることに気づいた。アウグスティヌス『告白』(山田晶訳、中央公論社、世界の名著シリーズ)を開いて少し読んだら、これだと思った。ものすごい充実感だった。

 

いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい。(アウグスティヌス『告白』、69ページ)

 

この部分の註釈。

 

イスラエルの子らは、荒野において天上からくだったものを見て「マナ」といった。「これはいったい何だ」という意味である。しかし彼らは、そのわけのわからないものを食べて、荒野の旅をつづけることができた(「出エジプト記」一六・一五)。同じように、神の永遠の意味はわれわれによくわからなくとも、わからないままにのみこんでほしい。われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われるのだから。(同、69ページ)

 

完全に知られたと思ったとき、それはもはや神ではない。神は知られざることによってかえって知られるのである(『秩序論』二巻一六章一四節)。(同、69ページ)

 

ぼくは自分が共通感覚を失っていると考えていて、自分は神なるものを見いだしえないと考えている。しかし、よく考えてみたら、共通感覚に疵が入っているからこそ、共通感覚なるものがあるのだということを知ることができるのだし、それはつまり、「かえってあなたを見いだす」ということではないのか。

 

答えは、いつも問いについてくる。すなわち、問うことが、答えることなのである。しかし同時にまた、問いがなされないかぎり、いかなる答えも生まれないということを忘れてはならない。(鈴木大拙『禅』ちくま文庫、29ページ)

 

しかしながら、もし求めようとしないならば、すなわち、それを突きとめようとして特に心を傾けることがないならば、われわれはけっしてそれを把握することはできない。(同、30ページ)

 

しかし、ぼくはマナなるもの、つまり「これはいったい何だ」というものを食べることで荒野での旅をつづけることが、できているのかどうか。できていないのではないか。わからないものをわからないままにのみこんでいるといえるのだろうか。いえないのではないか。村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』という小説の中で、蛇は体内にとりこんだ食べ物を、長い時間をかけて消化する、という話が出てきた。ぼくは消化不良になっている気がする。鷲田清一が『哲学の使い方』という本の中で、思考の肺活量ということをいっている。わからないものをわからないままに、観察する姿勢が大事なのだと。判断を下してはならない。それと同じことを、村上春樹自身も言っていた。

 

われわれは、さまざまなものに支えられて生きている。正気を保っていられるものも、支えがあるからだろう。健康を保っていられるのも、安全な環境で生活できるのも、支えがあって可能なことだろう。「われわれにわからない神の永遠によって、われわれの生は養われる」。木村敏的に言えば、われわれは共通感覚によって養われている、ということになるだろうか。神とか絶対無を共通感覚と言い換えていいのかわからないけれど。

 

Abide with me; fast falls the eventide

The darkness deepens; Lord with me abide

When other helpers fail and comforts flee

Help of the helpless, O abide with me

 

(われと留まれ。夜が落ちる。

闇が深まる。主よ、留まれ、われと。

助けがとどかず、慰めが逃げるなら、

無力なものの救い主よ、おお、われととどまれ)

日暮れて四方は暗く - Wikipedia

 

 

言語化は大事

言語機能って、言葉って大事だと思う。言葉だとか理屈に頼ってはいけないというような意見も世の中には存在する。では何に頼るのか、それは直感だとか、勘だとか、感情だとか、そういうものなのだと。

 

ぼくの場合、自分が何を好きなのかとか、何に興味があるのか、それを言語化するのに失敗している感じがあるので、言葉は大切だと思う。

 

ミンコフスキー『精神分裂病』に出てくるある患者は、私は生命との接触を失った、その欠如を私は理知によって補っている、というようなことを言っている。ぼくはこの患者にとても共感するのだけど、でも理知によって補うといっても、補いきれるものなのだろうか?

 

ぼくが生命との接触を失ってしまった、といっていることは、勘違いなり妄想なのだろうか?それは違うと思う。そもそも、ぼくが生命との接触を失ったという考えに至った原因は、ジャズドラムの即興演奏ができなくなったことにあるのだから。ジャズドラムができなくなったのは、なぜなのか?それを探るために、ぼくは木村敏などを読んで勉強してきたのだと思う。きわめて実際的で具体的な動機だと思う。

 

話は違うけど、カントは面白い気がしてきた。いままでまったく触れたことがなくて、なんとなく自分には縁がないのではないかと思っていたけど、この前『純粋理性批判』を最初から少し読んだら、よかった。というか、カントを読まないで西田幾多郎を読んでいたのは無理があったのではないかと思った。

おもに読書について、雑感

ここ半年、いや一年くらいか、精神病理学、心理学、哲学、宗教といったジャンルの本をほとんど読んでいない。つまり、小説しか読んでいない。どのような小説かというと、ドストエフスキー大江健三郎村上春樹平野啓一郎といったところ。去年は『カラマーゾフの兄弟』を二回通読した。いまも『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。本を読んでいるといっても、能力的に多くは読めない。一日に100ページも読めば上出来なほうだ。

 

さっき久し振りに木村敏の『あいだ』という本を引っ張り出して、読みだした。やはりこれはとんでもなく面白いと思うし、この本を読むのはぼくにとって何の苦もないし、ある意味とても簡単なことだと思った。完全に理解できているとは思わないし、木村敏の思想のごく一部分しか理解していないのかもしれない。でも、文章の平易さは問題ではないのだと思った。木村敏の文章は一般的に難しいとされているけど、内容の難しさをはるかに上回る面白さがあるから、ぼくは木村敏の本を読むことに苦を感じない。

 

それでも、木村敏から離れてしまうのはなぜだろうか。これを読んでいて、意味があるのだろうかという疑問が頭に浮かぶことがある。これは本だけに限らず、ギターの練習についてもいえることだ。これをしていて意味があるのだろうか、と思うことがある。本の選択を間違えているのではないか?ギターは趣味から除外するべきではないのか?

 

西田幾多郎を読んでいて、これを読んでいて意味があるのだろうかと思うことがある。鈴木大拙を読んでいて、そう思うことがある。とても面白いと思う時もある。木村敏にしろ、西田幾多郎鈴木大拙にしろ、とても面白いと思う一方で、「これを読んでいて意味があるのだろうか」という疑問が浮かぶ時点で、ぼくはこれらを大して面白いと感じていないということになるのではないか?村上春樹にしてもそうだ。面白いと思う。最後まで読み通すことは苦ではない。でも、疑問が浮かぶことがある、ぼくが読みたい本はこれなのだろうか?もっと読むべき本が他にあるのではないか?もっと他にやるべきことがあるのではないか?

 

村上春樹、ということで思い出した。村上春樹国境の南、太陽の西』という小説で、主人公は自問自答している、いまの自分の人生は上出来かもしれない、しかしこれが本当に自分の望んでいる人生なのか、と。

 

ここ一年くらい、小説だけを読んでいる。去年の四月から手帳に日記とか読書記録を書いているから、何の本を読んだのかも一目瞭然になっている。去年の四月から、いまに至るまで、小説以外の本は確か三冊くらいしか通読していない。聖書はたまに開くけど。ちょうど、去年の四月に鈴木大拙『禅』ちくま文庫、を通読している。三回目くらいの通読だったけど、とても鮮烈な印象があった。線を引っ張りまくり、ページの角を折りまくった。

 

ぼくは数年間、西田幾多郎鈴木大拙に執着していた。両方の岩波の全集を全巻揃えていて、これらをいずれは読破したいと思いながらも、なかなか読み進められないことに落ち着かなさを感じていた。いまから一年くらい前に、西田幾多郎にしても鈴木大拙にしても、文庫で出ているやつだけ読めばいいのではないかと思って、全集全巻はクローゼットの中にしまった。

 

木村敏西田幾多郎鈴木大拙は、ぼくにとって思想系著者の三強といっていいのだろう。木村敏については、主要な著作は十五冊くらい読んだので、自分は木村敏をまったく読んでいないというふうに不満を感じることはない。鈴木大拙にしても、主要な著作を八冊くらいは読んだので、それなりに理解していると思っている。けれども、西田幾多郎については、『善の研究』『思索と体験』の二冊しか読んでいない。あと全集から講演の文章をいくらか読んだだけ。エックハルトとかクザーヌスについての内容だった。西田幾多郎については、やはり前々から興味があるのに、ちゃんと読んでいないということに落ち着かなさを感じているのかもしれない。

 

ぼくはいま小説しか読んでいないけど、確かに小説も面白い。でも、面白いという感じは相対的なもので、もっと面白いものがあるならば、そっちを取るべきだろう。ぼくは本を選ぶとき、小説と、思想系、というふうに二つにわけて考えている。いまは小説中心で行こう、とかそういう二分法というかスプリッティングみたいなのが起こっている。

 

木村敏臨床哲学対話1と2、現代思想の総特集木村敏を発売後すぐに買って読んだのはいつのことだったか?もう二年くらい経っているのではないか。一時期、禁止ということを重視していた。つまり何かしら禁止をしなければ、何か目標を達成することはできないのではないか。例えば、本を一冊読み通す場合、一冊に集中することを阻む行動を、みずから禁止するわけだ。並行読みは禁止するべきかいなか、これも前から悩まされている問題の一つだ。以前は、思想系の本を中心に読もう、とか、自分に何らかの方向づけを与えていた。いまは無方向的に放埓に、適当に本を読んだり読まなかったり、ギターを弾いたり弾かなかったり、という生活を送っている。このような変化を前進とみなすべきなのかどうかわからない。

 

いまはドストエフスキー大江健三郎とサドと木村敏を並行して読んでいる。どれも面白い。でも、何かを選ぶということは何かを切り捨てるということだ。ぼくはずっと選ぶことを避けているのではないか。選ぶことを避ければ、捨てることを避けることにもなるのだろうか。しかし、ただぼんやりしているだけのようにも思う。

 

試しに、いまは思想系の本を中心に読もう、というふうにやってみるかどうか。目標を限定することで、自分のやりたいことが見えてくることもある。

 

さっき久し振りに木村敏『あいだ』を少し読んだ。この本は一度しか通読したことがないから、内容はほとんど覚えていないし、頭に残っていない。やはり最初のほうの音楽の合奏についての話は、圧巻だった。ビル・フリゼールもインタビューで、この木村敏の音楽についての文章とまったく同じようなことを言っていた。「あいだ」の話。

 

自分の苦しみに敏感になることも必要だし、自分の楽しみに敏感になることも必要だろう。

久し振りの更新、近況

久し振りの更新。更新は一年振りくらいになるけど、生活の形はほとんど変わっていないし、考えもほとんど変わっていない。いま読んでいる本はドストエフスキー大江健三郎、サド、木村敏など。

 

作業所というところに週四日で通い、余暇は本を読み、音楽を聴き、たまにギターを弾くという感じだ。ビル・フリゼールというギタリストが好きで、何曲か採譜して練習した。

 

ブログには特に書きたいことはない。昔はいろいろと考えを整理するために、あるいは誰かに話を聞いてもらいたいという思いがあって、ブログにいろいろ書いていた。

 

いま作業所では、週20時間まで増やすことを目標にしている。障害者雇用では週20時間が最低ラインだから、とりあえず週20時間で半年なり一年なり、休まずに通ったという実績を作らなければならない。その先に就労ということがあるのだと思う。

糸の切れた凧、木村臨床哲学の成果、正常者とされている人の語彙で理解する

確か、カイヨワが『遊びと人間』の中で、糸の切れた凧について書いていた。確か、糸の切れた幻想などただの勝手な妄想に過ぎない、ということだったと思う。ぼくはこの糸の切れた凧についてしばしば考える。ぼくにとって糸とは何か。ぼくにはまだかろうじて切れていない糸があるのではないか。たしかに、ぼくが考え、話していること、例えばこのブログに書いているような内容は、一見支離滅裂、意味をなしていないように見えるかもしれない、けれどもぼくの中ではつながっている。そのつながっているという確信は何を根拠にしているのか。

ぼくはまず、ヴァイツゼッカーの言っている「根拠関係」というもの、つまりミンコフスキーのいう「現実との生ける接触」というものを喪失している。ぼくは生命との接触を断たれている。つまり、糸が切れている。しかし、何が救いなのだろうか。ぼくにとって救いなのは、ぼくがその生命との接触を断たれているという事実に違和感を覚え、苦痛に感じているということだ。異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じるという構造は、異常なものとは言えないだろう。それは正常者の思考構造なのではないか、とぼくは思う。つまり、ぼくは自己の異常を異常として違和感を覚え苦痛に感じる、その意味で正常なのだと考えている。つまり、その部分の糸は切れていないのではないか。

我々が、自分に理解できない言説に触れたときに、それを難解な思想と捉えるか(つまり正常者によって語られたものとして捉えるか)、それともこれはきちがいによって語られた無価値な妄想だと捉えるか、何を根拠にしているのだろう。どこかに我々正常者とつながっている糸を見いだしているとき、我々は他者を、病者を理解するのではないか。

ぼくについていえば、ぼくは共通感覚に異常をきたしている。自己と自己が一致していない、そういう意味で分裂している。自己が二つに分裂していて、意識と無意識とが調和していない。垂直の意味で、意識と深いところにある意識との間に断層、亀裂がある。そして同時に自己と他者、あるいは外界とのあいだ、つまり水平の意味で、亀裂がある。二重の仕方で引き裂かれている。この表現の仕方は、レインに倣っている。

共通感覚の異常に違和感を覚えこれを苦痛に感じている。ぼくは異常である、が異常であることに違和感を覚え、苦痛を覚える、その意味でぼくは正常であると感じている。正常であると感じているというか、正常であると見なされている人、自分を正常であると信じている人は、現実との接点を保っているのだと思う。その現実との接点とは何か。それこそが、現実との生ける接触、あるいは根拠関係なのだと思う。

しかし、ぼくが自分をある意味において正常だと信じることができるのは、木村敏西田幾多郎といった高度に分節化された思想の支えがあって初めてできることだ。彼らが、特に木村敏が、一般に異常とみなされる人たちを、つまり分裂病の人たちを理解しようと努力してきたから、それを土台としてぼくは自分と、いわゆる正常者との接点をわずかにでも見いだすことができるのかもしれない。木村敏は、一般に異常とみなされる人たちを理解しようと、つまり我々正常者とつうじるものをみいだそうと努力してきたのだと思う。その成果が、木村敏臨床哲学なのだと思う。正常者とみなされている人とたちと、異常者とみなされている人たちとのあいだには、何かつながりがあるのではないか、切れていない糸があるのではないか。

ともあれ、ぼくは自分の異常な体験を、正常とされている人たちと共有できることばで理解しようと努めてきた。異常な体験を異常なことばで考え表現するのはなく、正常者の語彙ではぼくの異常な体験はどのようにかんがえられるのか。ぼくに必要なのは、正常者とみなされている人の語彙である。

ぼくが山は山であり山でない、という論理構造で話すときも、ぼくは禅の思想を念頭に置いている(般若即非の論理、コインキデンチア・オッポシトルム)、つまり自分自身の言葉で語ることを避けている。正常とされる人が語る言葉で、自分の異常な体験を理解し、語る、それがぼくにとっての課題であり、目標である。

村上春樹が、人はみな病んでいるという考えが、自分の根本的な思想だというようなことを言っていた。つまり、人はみな多かれ少なかれ病んでいて、異常者である、ということ。

ナラティブ形成

「自分とは何か?」という問いかけは、小説家にとっては――というか少なくとも僕にとっては――ほとんど意味を持たない。それは小説家にとってあまりにも自明な問いかけだからだ。我々はその「自分とは何か?」という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。作業はきわめて自然に、本能的になされるので、問いそのものについてあえて考える必要もないし、考えてもほとんど何の役にも立たない→むしろ邪魔になる。もし「自分とは何か?」と長期間にわたって真剣に考え込む作家がいたとしたら、彼/彼女は本来的な作家ではない。あるいは彼/彼女は何冊かの優れた小説を書くかもしれない。しかし本来的な意味での小説家ではない。僕はそう考える。(村上春樹『雑文集』新潮文庫、23-24ページ)

 

そう、小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである。自分とは何ぞや? そう思うまもなく(そんなことを考えている暇もなく)、僕らは牡蠣フライやメンチカツや海老コロッケについて文章を書き続ける。そしてそれらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向を、データとして積み重ねていく。多くを観察し、わずかしか判断を下さない。(同、26ページ)

 

「本当の自分とは何か?」という問いかけが、その論理的な歪みのゆえに、オウム真理教(あるいはほかのカルト宗教)に多くの若者を引き寄せる要因のひとつになったということは、本書でも大庭健さんによってしばしば指摘されているところだ。(同、26ページ)

 

これらの村上春樹の文章が、ずっと前から気にかかっている。初めてこれを読んだとき、がつんと来た。衝撃的だった。ぼく自身がまさに、村上春樹がここでいっているような、オウム真理教にのめりこんでいった人たちと同じような陥穽にはまりこんでいるように思ったからだ。

 

ブランケンブルクという精神病理学者の本に『自明性の喪失』というのがある。この本に出てくるアンネ・ラウという患者は、自然な自明性を失っているとされている。この本では、彼女は単純型分裂病とされている。ぼくはこのアンネという人にそれなりに共感できる。まったく自分自身と同じだと思うわけではないけど、かなり近い感じかたをしていると思う。

 

分裂病は、生涯治ることのない病とされている。そして、ぼくは自分を内省型単純型分裂病というのに近いと思っている。主治医は、「統合失調症神経症の中間」といっている。診断書の病名は、「統合失調症」。

 

ぼくの病気が生涯治ることのない病であるとするならば、自明性を失っている状況からは生涯ぬけ出すことができないということになる。村上春樹が上の文章でいっているような提言が、ぼくにとって具体的に意味を持つのだろうか。意味を持つのか、持たないのか、まだ答えは見つかっていない。つまり、考え方を変えていくだけで、ぼくの病気が改善するのかどうか。ぼく自身が体験している「自明性の喪失」のようなものは、言語的に理解する必要のあるものなのだろうか。もし言語的に理解する必要のないものであるとするならば、木村敏ブランケンブルクやビンスワンガーなどの分裂病精神病理学も、まったく必要のないものである、ということになるのではないか。精神科医にとっては必要であっても、患者当人にとって、そのような種類の自己理解は必要がないということだろうか。

 

ぼくは自己理解を欲している。自己といっても、自分という確かな、手に取って眺めることができるようなものがあると考えているのではなくて、自分と世界とのあいだの距離だとか、自分が世界と、あるいは人間とどのように対峙しているのか、それが知りたい。それがたんなる浮ついた知的好奇心によるものなのか、もっと切実な自己治癒を望む気持ちによるものなのか、区別ができない。

 

ぼくは落ち着かなかったり、瞬間に自分自身が閉じ込められていると感じられて苦しかったり、あるいは自分の感情がとても弱くなっていて、考えるために必要な生きた脈絡のようなものを感じることができなくなっていて、日常生活を普通に大過なく送ることができない。

 

うろ覚えだけど、「これが自分の傷口だといって手に取って示すことができるような傷は、たいした傷ではない」、これも村上春樹がいっていたことだ。ぼくは自分が異常であると感じているし、日々苦しい時間が多い。しかし、いまこの文章を書いていて、自分は果たして本当に精神を病んでいるのだろうか、という疑問がわいてきた。結局ぼくの抱えている問題は、自意識の病であって、架空の創作なのではないか? 神経症が架空の創作であると森田正馬がいっているように。

 

現実感がない、ものがあるという感じがしない、人間が生きている感じがしない、物事をスクリーン越しに眺めているようにしか感じられない、時間が流れていかない、体験がすべてばらばらの点となっていて、脈絡が感じられないといった、一般に離人症として説明される状況も、結局は自意識の病であって、もともと異常でも何でもない人が、何かをきっかけとして落とし穴にはまりこんでしまっただけのことではないのか?

 

時間が流れていかないということが、ぼくにとって最も苦しい問題だ。しかし、いつもいつも時間が流れないというわけでもない。喫茶店にいって二時間くらい本を読み続けることもできる。

 

ぼくが哲学、宗教系の本に引きつけられるのは、自己理解を求めているからだろうか、それとも浮ついた知的好奇心によるものだろうか。わからない。「わからない」ということが、ぼくのいまの状況を最も簡潔に言い表しているのではないか、そういう気もしてきた。自己理解をしたいのかどうかももうわからない。たしか、自分は信頼できる感情なり、体験をかつては持っていた。それがあるときを境に、失われた。そのような変移を納得して理解することのできるナラティブとして、木村敏やミンコフスキーの分裂病精神病理学だとか、鈴木大拙の禅思想、西田幾多郎の哲学などが役に立っているということなのではないか。

 

「生きるとは、物語をつむぐこと」というようなことを河合隼雄がいっていた。結局、ぼくにとって自分のナラティブを形成するためには、木村敏鈴木大拙西田幾多郎といった人たちの思想が必要だったのだと思う。いまも十分にナラティブを形成できているとは思わないので、これからも必要なのだと思う。

 

「私には自分自身がいちばん怖い。自分が何をするかわからないということが。自分が今何をしているのかよくわからないことが」

「青豆さんは今何をしているの?」

青豆は自分が手にしているワイングラスをしばらく眺めた。「それがわかればいいんだけど」と青豆は顔を上げて言った。「でも私にはわからない。今いったい自分がどの世界にいるのか、どの年にいるのか、それすら自信がもてない」

「今は一九八四年で、場所は日本の東京だよ」

「あなたみたいに、確信をもってそう断言できればいいんだけど」

「変なの」とあゆみは言って笑った。「そんなの自明の事実であって、今さら確信も断言もないじゃん」

「今はまだうまく説明できないけど、私にはそれが自明の事実とも言えないの」(村上春樹1Q84 BOOK1 後編』、新潮文庫、326ページ)

喫茶店でニーナ・シモン

いい喫茶店を見つけた。内装もいいんだけど、コーヒーもケーキもおいしくて、音楽はデューク・エリントンなどのスイングジャズとか、ルイ・アームストロングエラ・フィッツジェラルドなど。ニーナ・シモンの一枚目のアルバムの「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアズ・フォー・ミー」が流れていて、嬉しかった。まあ確かにこの曲はテレビのCMでも使われたりしていて、ニーナ・シモンの曲の中ではいちばんポピュラーなものだろう。一枚目の「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン」なんかは、喫茶店のBGMにかけるには思い切りが必要なのだろう。あと『ニーナとピアノ+4』の曲も、喫茶店のBGMには不向きかもしれない。もし喫茶店で「エブリワンズ・ゴーン・トゥー・ザ・ムーン」とか、「イン・ラヴ・イン・ヴェイン」とか「ミュージック・フォー・ラヴァーズ」とかが流れていたら、ぼくはもう歓喜して快哉を叫ぶね。

 

いま家で、クレンペラー指揮、バッハミサ曲ロ短調を聴いている。これはもう十年以上聴いているのかな。バッハといったら、このミサ曲ロ短調と、マタイ受難曲、あとピアノ曲ゴルトベルク変奏曲平均律、インヴェンション、パルティータあたりをたまに聴く。クレンペラー指揮、あとピアノはグレン・グールド中心。ディヌ・リパッティも聴く。リパッティといえば、彼のバルトークピアノ協奏曲第3番は、とても好き。ピアノが気品にあふれ、音色に透明感がある。バルトークのこの曲には、木々のざわめき、小鳥の歌、土の匂いが感じられる。あとリパッティの演奏で好きなのが、ショパンピアノ協奏曲第1番。