日記、本と音楽

統合失調症。普段の生活について書きます。

旅行者の感覚

いま、ジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』というアルバムを聴いています。このアルバムは高校二年ごろによく聴いていました。もう十年以上前の話です。

 

それで、これを聴いていて、沖縄を思い出します。その当時の父親の単身赴任先が沖縄だったのですが、何度か遊びに行ったことがあるのです。高校の修学旅行も沖縄でした。なので、沖縄は三回くらい行ったことがあります。とてもいい思い出です。思い出というか、「思い」ではなくて、その沖縄の空気感、肌触りが心地よくて、それが懐かしいのです。

 

このジェフ・ベックの音楽を聴いていて、沖縄のそうした空気感、気温、肌触り、匂いなどを思い出します。なにをしたとかではなくて、雰囲気を思い出すのです。また、このジェフ・ベックの音楽を聴いていて、おそらく同じころに聴いていたカシオペアの『エイジアン・ドリーマー』というベスト盤や、エリック・クラプトンの『レプタイル』、同『461オーシャン・ブールヴァード』なども思い出します。

 

ぼくはその雰囲気を「旅行者の感覚」と呼んでいます。これはぼく独自呼び方なのですが、一般的な言葉で言えば、「雰囲気」とか、「世界の匂い」、「世界の色」、というふうになると思います。なぜ「雰囲気」とひとことで言えばいいことを、わざわざ「旅行者の感覚」などという表現を使うのか。それは、ぼくは大学に入ったころあたりに離人症を発症し、現実感やら雰囲気やら空気感、世界の匂い、世界の色というようなことがほとんどわからなくなったのですが、沖縄へ旅行しに行ったことが、離人症を発症する以前の感覚を代表しているように思われるからだと思います。沖縄に修学旅行に行ったときは、まだ離人症を発症していなかったので、現実感や空気感、雰囲気、世界の匂いやら世界の色やらを感じることができていたのです。そして、そのときに聴いていた音楽が、磁力でもって、その当時の雰囲気などを吸い寄せ、保存してくれているから、ぼくはいまその当時に聴いていた音楽を聴き直すと、同時にその当時の雰囲気などもわずかにではあるけれど、再び感じることができるのでしょう。

 

こうした感覚は、離人症でない正常な人だと、ありふれたことで、「なに当たり前のこと言ってんの?」という感じかも知れません。たとえば、哲学思想の本を読む人を批判(あるいは非難)する人がたまにいます。彼らの言い分はこうです、「哲学者と呼ばれる人は、当たり前のことをわざわざ難しい言葉で語っている」。ぼくの場合は、当たり前のことがいろいろとわからなくなっている、感じられなくなっているので、自己治療的な意味で、「哲学的な」本をいくらか読んできました。上に書いたような、「当たり前のことを難しい言葉で語っている」、哲学者と呼ばれている人たちの一部も、いくらか自明性を失っていたのかもしれないとぼくは思っています。哲学者と呼ばれている人たちのなかには、自明性をいくらか失っていて、自己治療的に、思索を深めた人たちがいるのではないか。西田幾多郎や、鈴木大拙ニーチェユングなどは、いくらか自明性の喪失的な事態にあった人なんじゃないかな、とぼくは彼らの本を読んでいて、思います。ぼくが好んで読んでいる木村敏はどうかというと、彼は「外から」書いている人なんじゃないかな、と思います。狂気を外側から観察している人なんじゃないかと。ミンコフスキーやブランケンブルクもそうだと思います。まあ、外側から観察することができるのは、精神科医なんだから当たり前とも言えるわけですが。ぼく自身は、間違いなく「内側」の人なので、こうした病的というか、正常でない事態を言葉で理解したいという欲求のようなものがあり、だから精神病理学などの本を少しばかり、おもしろく読んでいるわけですが、ぼくのような立場からすると、精神病理学者というのは、つねに「外から」観察記述しているわけで、そういうのって、すごいなと思います。ぼくは、精神病理学の本を、自分自身の問題として読むわけです。でも、精神病理学者たちは、そうではないでしょう。それだから、かれらは、わざわざエポケー、判断中止ということをやらなければならないわけですよね。

 

でも、学者や宗教家、芸術家たちを狂気の内側にある人、狂気の外側にある人、というふうに二分することはできるのでしょうか。それらの中間もあると思われます。村上春樹は、サリン事件の被害者たちをインタビューするさいに、「人はみな多かれ少なかれ、病を持っている」ということを念頭に置いていたそうです。